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→‎戦後: A級戦犯容疑者には笹川良一など鈴木より後まで生きた人物もいるため修正
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=== 戦後 ===
[[ファイル:Teeichi 5.jpeg|サムネイル|鈴木貞一(1950年)]]
終戦後の[[1945年]](昭和20年)[[12月3日]]に[[A級戦犯]]に指定された。[[極東国際軍事裁判]]で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている<ref>裁判では、陸軍中将ではなく、企画院総裁という[[文官]]としての立場で起訴されている。</ref>。終身[[禁錮]]の判決を受け服役する。
 
[[1955年]](昭和30年)[[9月17日]]に[[橋本欣五郎]]、[[賀屋興宣]]とともに仮釈放されて、[[1958年]](昭和33年)に赦免された。
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[[NHKスペシャル|NHK特集]]『戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~』([[1979年]][[2月26日]]放送)に、[[日本放送協会|NHK]]の取材に応じて[[ビデオテープレコーダー|VTR]]の形で出演し、二・二六事件当時の様子を語っている。この番組では、事件当時戒厳司令部によって傍受・録音された鈴木及び家族の肉声が放送されている。この時の取材及び録音内容については、番組のプロデューサーだった[[中田整一]]の著書『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋、[[2007年]])に記されている。NHKの取材を受けた当時の鈴木は[[卒寿]](90歳)を迎えていたがダンディな服装で現れ、記憶力や会話も極めて明晰で、中田を驚かせた。
 
[[1989年]](平成元年)に100歳で没した。A級戦犯に指定として起訴されたことのある人物としては、唯一[[平成]]まで存命した最後の生き残りであった。葬儀は東京都[[杉並区]]の[[福相寺 (杉並区)|福相寺]]で営まれ、葬儀委員長は[[福田赳夫]]が務めた。
 
== 年譜 ==