「大草流庖丁道」の版間の差分

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 さて、上手がもちろん上座である。上座は、自分より格上の人が座る席であり、下座はその反対である。この格上、格下と言うものは、かつては封建的な基準で考えた上下かもしれないが、大草ではもう少し深い意味合いで解釈している。決して身分の格差ではないと言う事をである。儒教からくる年齢の序列、礼儀からくる先輩、後輩の絆のあり方、組織上の機能からくる役目としての上下、そして立場の上下など、それを公式に表現したのが上座、下座であると、幅広く豊かに解釈すべきである。
 上座に対して最も必要なものは「敬意」であり、下座に対しては「思いやり」である。この事は、一番大事な事なので、しっかり理解して欲しい。 どんなに複雑な儀式でも、大草の場合、原点は全てこの「敬意」と「思いやり」の表現である。そして、機能としては礼儀と立場の構図でしかない。まかり間違っても差別のための上下関係ではないのだ。いずれにしろ、上座にはへつらい、下座には威張るなどと言う間違いは、するべきではない。へつらい威張る事ほど見苦しい事はないのである。もちろん特殊な場合だが常識的に見ても後輩であり、若輩であっても上座に座る場合がある。これは、お客様だとか、上座に座るべき人から信任を受けた代理人の場合である。お客様には歓待をし、代理人には敬意を表するのも、これまた礼儀である。まさに礼儀と立場の構図たるそれが、大草の座の所以である。
 
==料理人と庖丁人の違い==
 
大草は本来、式の流派である。料理の流派だと言ってしまっては、あまりに意味が小さすぎる。式と言う言葉は、形式的には色々な決まり事という意味である。大草での決まり事と言うのは、一言で説明するのは非常に難しい。やはり、式の流派だとしか言いようがない。つまり色々な式を守り伝えて行く流派なのである。守ると言っても、ただ無考えに守るのではなく、そこには日本人としての一つの哲学が通底している。しかし、大草のそれは武士の世界のものである。だから武士のいなくなった現代では、表面的にそぐわない事も多いが、一方で、考え方や仕組みはこの現代でも立派に通用する。日本は、非常に長く武士の支配下にあった。だから、その間に武士階級の中だけであった習わしが、いつの間にか下々にまで浸透していったのであろう。一般庶民の間でも、ハレの場面では、それが典型的な仕来たりとなって執り行われる様になって行った。ハレの場面と言うのは、今でもそうだが、饗応が付き物である。饗応では必ず、儀式的に飲んだり食べたりするものである。だから饗応を取り仕切った庖丁人は、相当に幅広く色々な仕来たりについて精通していなければならなかった。今現在の日本でも、それが迷信だと分かってはいても結婚式は仏滅を避け、葬儀は友引を避けると言う具合である。儀式など、格式張った事となると、今でも必ず古来の決まり事が仕来たりとして、フッと蘇り我々の身近に現れてくるのである。大草の理論は、大草だけにしか通用しないと言う様な、狭っ苦しいものは一つもない。もちろん、庖刀式にしか通用しないと言う様な閉鎖的なものも一つとしてない。だから大草が分かってくれば本当は色々役に立つのである。料理が出来ると、料理が分かるとは違う事である。もちろん、分かるだけではダメである。出来なければお話にならない。出来て分かれば申し分ない。大草がこだわる料理人と庖丁人の違いは、そこなのだ。何事においても、理論と技術は車の両輪なのである。
 
==岡本太郎の讃==