「大政翼賛会」の版間の差分

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[[ファイル:Announcement ceremony of Taisei-yokusan no Uta.JPG|thumb|「[[大政翼賛の歌]]」発表の式典。1940年12月16日]]
このように、大政翼賛会を中心に[[太平洋戦争]]下での[[日本軍|軍部]]の方針を追認し支える体制を'''翼賛体制'''という。[[真珠湾攻撃]]による日米開戦から約5ヶ月を経た[[1942年]](昭和17年)[[4月30日]]に実施された[[第21回衆議院議員総選挙]]では'''翼賛政治体制協議会'''(翼協)が結成され、466名(定員と同数)の候補者を推薦し、全議席の81.8%にあたる381名が当選した。選挙資金は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の機密費(臨時軍事費)から支出されており、陸軍の機密費(臨時軍事費)で当選した議員は、「臨軍代議士」と呼ばれた。
 
[[1942年]](昭和17年)[[5月26日]]には傘下組織である「[[日本文学報国会]]」が結成。同年[[6月23日]]には「[[大日本産業報国会]]」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「[[大日本婦人会]]」、「[[大日本青少年団]]」の6団体を傘下に統合した。同年[[12月23日]]には「[[大日本言論報国会]]」が結成された。また、興亜総本部も設置され、「[[アジア主義]]団体」の統制も行った。
 
その後、[[1944年]](昭和19年)[[7月22日]]に東條内閣が総辞職、[[小磯内閣]]([[小磯國昭]]総裁兼首相、[[陸軍大将]])成立後、日本軍の敗北が目前と迫った戦争末期の[[1945年]](昭和20年)[[3月30日]]に組織の一部が[[翼賛政治会]]を改組した「[[大日本政治会]]」と統合された。同年[[4月7日]]に小磯内閣が総辞職、[[鈴木貫太郎内閣]]([[鈴木貫太郎]]総裁兼首相、退役[[海軍大将]]・[[華族]][[男爵]])成立、[[本土決戦]]に備えた「[[国民義勇隊]]」の結成により同年[[6月13日]]に大政翼賛会は解散となった。しかしこれは政府首脳と軍部による強引な統廃合であったため、これに反発した[[岸信介]]ら翼賛政治会の一部が「[[護国同志会]]」などを結成した。軍部と結んだ大日本政治会に対抗するなど混乱を来たし、収拾がつかないまま日本政府は[[ポツダム宣言]]を受諾し終戦を迎えることとなった([[日本の降伏]])。
 
[[戦後]]の[[日本国憲法]]制定後は、[[結社の自由]]が保障されたために、大政翼賛会のような組織は存在しえなくなったものの、当時翼賛体制下で結成された[[隣組]]やその後継である[[町内会#歴史|町内会]]は依然として残り、立法府として[[帝国議会]]の役割を引き継いだ[[国会 (日本)|国会]]などにおいては[[野党]]などが[[与党]]の[[連立政権]]を揶揄する言葉として使用することが時折見受けられる{{efn|例えば、当時の[[政権]]与党であった[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が野党第一党の[[新進党]]の支持を取り付けた時、[[1997年]](平成9年)[[4月11日]]の衆議院[[本会議]]で[[在日米軍]]における[[米軍用地特別措置法]]改正案の特別委員会の委員長を務めた[[野中広務]]は委員会報告の中で「…再び国会の審議が、どうぞ'''大政翼賛会'''のような形にならないように若い皆さんにお願いをして…」と述べた。}}。
 
== 性質 ==