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[[551年]](太清5年)、さらに王僧弁の麾下として、[[徐文盛]]の後詰めとして[[岳陽県|巴陵]]に入った。[[侯景]]が[[郢州]]を攻め落とし、徐文盛を撃破して西上してくると、杜龕は王僧弁らとともに巴陵を守った。侯景は巴陵城を囲むこと数十日、城を落とすことができず撤退した。杜龕は太府卿・安北将軍・都督[[定州]]諸軍事・定州刺史に転じ、通直散騎常侍の位を加えられた。王僧弁に従って侯景を[[江夏区|江夏]]まで追い、江夏城を包囲した。侯景の部将の[[宋子仙]]が城を放棄して逃走し、杜龕は楊浦まで追って、これを生け捕りにした。[[552年]](太清6年)、王僧弁の軍が姑孰に達すると、侯景の部将の[[侯子鑑]]が迎撃してきたので、杜龕は[[陳霸先]]や[[王琳 (軍人)|王琳]]らとともにこれを攻撃し、侯子鑑を破った。王僧弁の軍が[[石頭城 (南京)|石頭城]]に達すると、侯景が自ら兵を率いて会戦してきたため、杜龕は諸軍とともに奮戦し、侯景軍を破った。論功第一として、平東将軍・[[越州 (浙江省)|東揚州]]刺史に任じられた。
[[553年]]([[承聖]]2年)、王僧弁とともに陸納らを
9月、陳霸先が[[建康 (都城)|建康]]を攻め、王僧弁を殺害した。同年([[紹泰]]元年)10月、杜龕は呉興に拠って陳霸先に反抗した。軍副の杜泰を派遣して[[長興県|長城県]]にいた[[文帝 (陳)|陳蒨]]を攻めさせたが、かえって陳蒨に敗れた。陳霸先が部将の[[周文育]]を派遣して攻撃してきたため、杜龕は従弟の杜北叟に命じて阻ませたが、周文育に敗れた。杜龕は[[義興郡]]に逃れたが、陳霸先の包囲を受けた。11月、北斉の将軍の柳達摩らが建康を襲撃したため、陳霸先は建康に取って返した。12月、杜龕は頼みの北斉軍が撤退したと聞くと、陳霸先に降伏した。[[556年]](紹泰2年)1月、杜龕は呉興で殺害された。
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