「平沼騏一郎」の版間の差分

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[[第2次山本内閣]]にて[[司法大臣]]として入閣を果たす。貴族院議員、枢密顧問官などを経て、枢密院の副議長や議長を務めた。内閣総理大臣に指名され、[[平沼内閣]]を組閣した。これにより、[[三権の長]]のうち2つ(司法と行政)を務めたことになる。内閣総理大臣退任後は、[[第2次近衛内閣]]にて国務大臣や内務大臣を務めた。[[太平洋戦争]]後、[[極東国際軍事裁判]]で[[A級戦犯]]として訴追される。[[終身刑]]の判決を受け、獄中で死去した。
 
政治以外の活動としては、[[慶應義塾大学]]法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの[[大東文化大学]])総長、大東文化協会(大東文化大学の設立母体)会頭、[[皇典講究所]]([[國學院大學]]の設立母体)副総裁などを務めた。
 
また、[[国本社]]の創設者であり、第2代[[修養団]]団長でもある。[[無窮会]]の創立者として、相談役、第2代会長、理事などを歴任し、[[東洋文化学会]]でも第2代会長を務め、後に[[東洋文化研究所]]を創設して、初代所長を務めた<ref group="注釈">他方、ラルフ・ドライヤーによれば、[[ドイツ]]([[プロイセン王国]]~[[ワイマール共和政]])で[[:s:ナチスの法制及び立法綱要(刑法及び刑事訴訟法の部)|ナチス法制]]を容認した法哲学者{{仮リンク|ユリウス・ビンダー|en|Julius Binder|preserve=1}}([[ハンス・ヴェルツェル]]の師)は、[[エアランゲン大学]]、[[ヴュルツブルク大学]]および[[ゲッティンゲン大学]]の学長、エアランゲン大学哲学部および[[ソフィア大学]]法学部名誉博士、ゲッティンゲン学術会議と[[ドイツ法学術会議]]の委員、[[ドイツ哲学会]]、[[ドイツ国家学会]]および[[国際ヘーゲル連盟]]の創設者の一人であった([[:de:Ralf Dreier|Ralf Dreier]]『[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/13-4/dhonda.pdf ユリウス・ビンダー(1870 - 1939年) — 帝国とナチスの間の法哲学者]』)。</ref>。
過去、[[第2次若槻内閣]]や[[浜口内閣]]に対する攻撃、[[天皇機関説排撃事件]]などで、[[元老]][[西園寺公望]]に嫌われており、本人の強い希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長に就任できずに副議長に留め置かれたままであった。
 
なお西園寺側は天皇機関説事件の黒幕を平沼と誤認していたが、当時平沼は枢密院議長ではなく内閣総理大臣として軍部を統制することを目指しており、平沼の陰謀とすることは難しい。辞職を希望する[[一木喜徳郎]]枢相が後任に平沼を推す一方、平沼派は一木枢相の後任に平沼でなく[[清浦奎吾]]を推していた(ただし清浦は西園寺とほぼ同世代で天皇機関説事件当時85歳)
 
ただ西園寺は、1932年に首相[[犬養毅]]が武装[[海軍]]青年将校らに殺害された[[五・一五事件]]の後も、まだ[[政党内閣]]を続けるつもりであり、また、[[立憲政友会]]右派の[[森恪]]らも、総裁に[[鈴木喜三郎]]を選出し、次期首相に推していた(いわゆる「[[憲政の常道]]」では首相死去による内閣総辞職の場合は与党の後継党首への[[大命降下]]となる)。
そのうえ議会が近いという事情から、近衛内閣から[[塩野季彦]]法相兼逓相、[[荒木貞夫]]文相、[[木戸幸一]]内相、[[有田八郎]]外相、[[八田嘉明]]商工相兼拓務相、[[米内光政]]海相、[[板垣征四郎]]陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。週刊『[[アサヒグラフ]]』はこれを「平沼・近衛交流内閣」と皮肉っている。
 
しかし同時に、近衛系の人材でも[[末次信正]]、[[有馬頼寧]]、[[風見章]]らのような熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。これは[[観念右翼]]と評される平沼が、新体制運動・制度改革論者をナチス型[[国家社会主義]]の亜流として警戒していたことを意味している。
 
最大の懸案である対中問題では「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という[[近衛声明]]に基づき、[[汪兆銘政権]]を成立させ、これと外交的解決を図ることで[[日中戦争]]の幕引きを狙ったが、意図したような[[中国国民党]]内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。