「租庸調」の版間の差分
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=== 租 ===
租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の
また、戸ごとに五分以上の減収があった場合には租が全免される規定([[賦役令]]水旱虫霜条)があり、そこまでの被害が無い場合でも「半輸」と呼ばれる比例免の措置が取られるケースがあったが、当時の農業技術では、全免・比例免を避けることは困難であった。そこで、1つの令制国内において定められた租の総額に対して7割の租収入を確保することを目標として定めた「不三得七法」と呼ばれる規定が導入されたが、これを達成することも困難であったため、[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])に旧例として原則化されるまでしばしば数字の変更が行われた。
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=== 庸 ===
正丁(21歳
庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。
==== 庸米 ====
大宝律令・養老律令には庸米に関する規定は存在していなかったが、『[[延喜式]]』には正丁1名あたり米3斗とする規定があること、[[平城宮]]などから出土した[[木簡]]に庸米1俵として5斗・5斗8升・6斗などの分量が記されているものがあることから、古代を通じて庸米が徴収され、1俵=2丁分の庸米に相当したとみられている。また、庸が衛士や采女、その他雇役民の食糧に充てられたという点からも、庸としての米は重要な部分を占めていたと考えられている<ref name="庸米/国史大辞典">寺崎保広「庸米」
==== 庸布 ====
大宝律令では、当時一般的な基準とされていた常布1[[丈#丈(じょう)|丈]]3[[尺]]2枚分に相当する布2丈6尺が正丁1名あたり徴収された(ともに幅は2尺4寸)。だが、実際には程なく庸は半減され、慶雲3年(706年)には定制化され、事実上正丁1丈3尺が徴収されることになった。養老元年(717年)には4丈2尺(1丁分の庸布+調布の長さ)を1端、2丈8尺(2丁分の庸布)を1段と称するようになり、端と段は後には長さの単位としても用いられるようになった。なお、庸布には納付した人物の国郡郷姓名を両端に墨書する規定が存在していた
=== 調 ===
正丁・次丁・中男(17歳
京や畿内では軽減、[[飛騨国|飛騨]]では免除された。
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==== 調銭 ====
調の物納に替え、銭で納税する制度。但し、後世のように貨幣経済は発展していないため、目的は銭貨の流通・還流策の一環であり、[[大宝律令]]の施行後間もない[[和同開珎]]の鋳造後には施行された。制定当時は、銭5文を調布は長さ1丈3尺に相当するものとされたが、貨幣価値の変動に左右された。神亀年間
=== 飛騨国の特例 ===
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== 中国の租庸調 ==
中国の租庸調は、[[北周]](556年 - 581年)に始まり、[[唐]](618年 - 907年)で完成した。以下は、唐における租庸調である。
;租:[[均田制]]に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負った。これが'''租'''である。租は穀物を納める税であったが、当時の唐の基盤となった華北の主食は[[アワ|粟(アワ)]]であり、租の本色(基本的な納税物)は粟とされていた<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P523</ref>。▼
;庸:律令においては、本来は年間20日の労役の義務があり、それを「正役」と称した。正役を免れるために収める税が庸であったが、唐代中期以後は庸を納めることが一般化した(なお、雑徭2日分が正役1日分と換算されたため、雑徭を年間40日を行った者はその年の正役も庸も免除され、庸を正役20日分納めた者は雑徭も40日分免除された)。正役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることとされていた。▼
▲:[[均田制]]に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負った。これが'''租'''である。租は穀物を納める税であったが、当時の唐の基盤となった華北の主食は[[アワ|粟(アワ)]]であり、租の本色(基本的な納税物)は粟とされていた<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P523</ref>。
;調:調は、絹(絹織物)2丈と綿([[真綿]])3両を収めることとされていた。▼
▲:律令においては、本来は年間20日の労役の義務があり、それを「正役」と称した。正役を免れるために収める税が庸であったが、唐代中期以後は庸を納めることが一般化した(なお、雑徭2日分が正役1日分と換算されたため、雑徭を年間40日を行った者はその年の正役も庸も免除され、庸を正役20日分納めた者は雑徭も40日分免除された)。正役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることとされていた。
▲:調は、絹(絹織物)2丈と綿([[真綿]])3両を収めることとされていた。
ただし、租庸調は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]統一以前の[[北朝 (中国)|北朝]]支配下の農民の実態に合わせた租税制度であったと見られ、[[隋]](581年 - 618年)になってから統治下に含まれるようになった旧[[南朝 (中国)|南朝]]支配地域でそのまま実施されたかについて疑問視する意見もある(南朝支配下の華南は[[イネ|稲]]を主食とし、農民の生産活動が華北とは大きく異なるため)<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P72-79・512-515</ref>。
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{{朝鮮の事物
|title=租庸調
|hangeul=조용조
|hanja=租庸調
|hiragana=そようちょう
|katakana=チョヨンジョ
}}
[[朝鮮]]では、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]に[[中国]]から律令制度とともに租庸調の制度を輸入したとされている<ref name=y>[http://kr.dictionary.search.yahoo.com/search/dictionaryp?&p=%EC%A1%B0%EC%9A%A9%EC%A1%B0&subtype=enc&pk=18090700&field=id 租庸調]Yahoo!百科事典</ref>。その後の[[高麗]]と[[李氏朝鮮]]も、租庸調という伝統的な貢納形態に税制の根拠を置いた。名称と内容は時代とともに変わったが、租庸調の基本的な枠組は、20世紀初まで継続した<ref name=b>[http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=186173&v=42 租庸調]ブリタニア百科</ref>。
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李氏朝鮮は、租庸調の制度を通じて、土地と民を支配し、生産物と労動力を徴収して体制を維持した<ref name=b/>。李氏朝鮮初期には、租は田畑が課税の対象なので賦課率が明らかだったが、庸と調は官吏たちの不正が伴って負担が重くなり、農民を苦しめた<ref name=y/>。李氏朝鮮中期以後には、[[大同法]]([[:ko:대동법|대동법]])により調の大部分も田畑を対象とし米で納めるようになった。庸は軍布([[:ko:군포 (세금)|군포]])という布で納めるようになり、また[[均役法]]([[:ko:균역법|균역법]])の制定後には、一部を田畑を対象とし米で納めるようになった。時代によってその負担の軽重が変わり、初期には庸と調の負担が租よりも重かったが、後期には租の負担が一番重くなった<ref name=y/>。
李氏朝鮮末期には[[三政の紊乱]]といわれる税制上の様々な不正や収奪が横行した。[[1907年]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
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'''出典'''
{{Reflist}}
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[[Category:律令制の税制]]
[[Category:税制史]]
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