「宇奈月温泉」の版間の差分

*[[1928年]]([[昭和]]3年)[[12月5日]] - 柳河原発電所{{refnest|group="注釈"|運転自体は前年の[[1927年]](昭和2年)に既に開始しており、合計最大出力5万キロワットは当時日本最大出力<ref>『[[北日本新聞]]』2021年7月27日付22面『とやまゼミナール2021 もうすぐ100年 宇奈月温泉ものがたり3』より。</ref>。}}の完成をもって、山田胖は黒部を去り{{要出典|後に|date=2017年5月}}[[奥多摩工業]]株式会社の社長に転じた<ref>「黒部奥山と扇状地の歴史」にある記述より。しかし、奥多摩工業株式会社沿革では同社が [[1937年]]([[昭和]]12年)6月設立とあるため齟齬がある。「[[多摩川誌]]」によれば「奥多摩工業は、1927年に浅野セメントが買収していた日原の山林を継ぎ、10か年以内に鉄道を建設し石灰石の採掘を行おうとして、日本鋼管と鶴見造船が出資して[[奥多摩電気鉄道]]株式会社として設立されたものである。」とある。「語りつぎたい黒部人」には協力者として山田洋夫の名が見える。また[http://www.city.kurobe.toyama.jp/event-topics/svTopiDtl.aspx?prev=1&servno=1853 黒部市・山田 胖(やまだゆたか 1886-1964)]には{{要検証|[[1927年]]に[[鶴見臨港鉄道]][[常務取締役]]となったと記述がある。|date=2017年5月}}</ref>。山田が調査を開始してから11年目であった。
*[[1935年]](昭和10年)10月5日 - 引き湯の経由地に、樋菅を通すための利用権が設定されていない土地があり、その所有者が土地の高額買取を黒部温泉に要求したが拒否されたため、不法占拠として樋菅撤去を要求して裁判に訴えたが、[[大審院]]判決により「[[権利の濫用]]」として上告棄却された([[宇奈月温泉事件]])<ref>[http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8732985_po_ogawa.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 温泉会社の源泉リスクと観光資本家 : 遠距離引湯の廃絶例を中心に]小川功、彦根論叢. (386)、2010-12-28</ref>。この判決は権利濫用の重要判例として広く知られるに至った。
*[[1945年]](昭和20年)8月1日 - [[太平洋戦争]]の戦況悪化の影響で全旅館が休業(この時点での旅館は「小柳館」「桃原館」「坂井館」「富山館」「延楽館」「金山館」「水月旅館」「河内旅館」「延對寺」の計9軒)。終戦後は段階的に営業を再開<ref name="u4">『北日本新聞』2021年8月3日付26面『とやまゼミナール2021 もうすぐ100年 宇奈月温泉ものがたり4』より。</ref>。
 
=== 戦後 ===
*[[1946年]](昭和21年)[[5月21日]] - 共同浴場の近くにあった土木作業場より出火し、川をふさいだ上出火元が温泉街の入り口付近であたっため消防車が町の中に入れず大火となって、温泉街のほとんど9割を焼失した(焼け残った旅館は2軒のみ)。当時の[[日本発送電]]や内山村の援助により復興した。これに合わせ温泉街の道路網の区画整理や近代的感覚を取り入れた旅館施設や内容の充実を図り、入浴客の受け入れ態勢が強化された<ref>『開湯90周年 宇奈月温泉の歴史を辿る』(2013年10月23日、黒部市教育委員会発行)7ページ。</ref><ref name="u4" />。
*[[1947年]](昭和22年)冬 - 雪のカーニバルが初めて開催される<ref name="u4" />。
*[[1953年]](昭和28年)11月 - 関西電力黒部専用軌道の内、[[宇奈月駅|宇奈月]] - [[欅平駅|欅平]]間は地方鉄道法による営業の免許を受け、トロッコ電車の一般観光客利用が行われはじめた。これにより客足が伸びたことで、温泉街も発展した。
*[[1956年]](昭和31年)7月 - 関西電力[[黒部ダム]]と[[黒部川第四発電所]]の建設が始まる。