削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
33行目:
さらに桓玄は劉牢之から北府軍団の実権を奪い、これに怒った劉牢之は桓玄を討とうとしたが、度重なる寝返りを行ったことから部下の劉裕らに見放され、逃亡した後自殺した。こうして東晋の実権を掌握した桓玄は、元興2年([[403年]])12月、安帝より帝位の禅譲を受ける形で皇帝に即位、国号を楚([[桓楚]])とし、[[元号]]を[[永始 (桓玄)|永始]]と定めた。
 
しかし、わずか3カ月後の永始2年([[404年]])2月、かつての劉牢之配下の武将であった劉裕が桓玄打倒のクーデターを起こし、[[徐羨之]]・[[諸葛長民]]・[[檀道済]]・[[劉毅 (東晋)|劉毅]]らも劉裕に呼応、敗れた桓玄は建康を脱出して西へ逃れたところを、子の[[桓昇]]とともに[[益州]][[都護]]の[[馮遷 (東晋)|馮遷]]によって殺害された<ref>『[[晋書]]』巻81 毛穆之伝 6行目</ref>。その後同族の[[桓振]]によって'''武悼皇帝'''と諡された。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==