「イスラム民族運動」の版間の差分

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イスラム民族運動は[[1989年]]に結成された[[アフガニスタン民主共和国]]陸軍第53歩兵師団をその母体としている。当時は4万人前後の兵力を抱える小隊だった。[[1992年]]、ラシッド・ドスタムは[[ムハンマド・ナジーブッラー]]政権に叛旗を翻し、アフガニスタン民主共和国は崩壊に追い込まれた。
 
[[1992年]]、ラシッド・ドスタムはイスラム民族運動を結成した。その主力は[[アフガニスタン人民民主党]]パルチャム派であった。当初は[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]政権に協力していたが、1994年に叛旗を翻し、[[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]と共にカーブルを攻撃し、政権を打倒しようとした。同年結成されたターリバーンが勢力を拡大し、ヘクマティヤールが敗走すると再び政府側に加わり、[[北部同盟]]に参加する。この頃、[[マザーリシャリーフ]]周辺を実効支配していたが、1997年、党首の座を狙った[[アブドゥル・マリク]]の反逆で1998年にタリバーンの占領を許す事になった。2001年、イスラム民族運動は[[アフガニスタン紛争 (2001年-)]]においてマザーリシャリーフを解放し、さらにアフガニスタン全土の解放に尽力した。
 
[[2021年]]、[[ファーリヤーブ州]]の知事の任命をめぐって[[アシュラフ・ガニー]]大統領と対立した。ジュンビッシュ民兵と支持者による抗議活動の結果、ガニー大統領から任命されたモハマド・ダウド・ラグマニを乗せたヘリコプターの着陸を阻止するに至った。