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微生物学者[[有明文吉]]の次女として[[東京]]に生まれる。成女高等女学校(現在の[[成女高等学校]])を卒業する直前に、敬愛する父が死去。
 
[[1936年]]に同校を卒業し、イトウ洋裁学校に通学。このころから太宰文学に親しむとともに、自らも文章を書き始めた。[[1938年]][[4月30日]]から[[1938年]][[8月8日]]まで[[伊東屋]]の[[大学ノート]]に日記を綴る(8月8日まで書いたところで紙幅が尽きた)<ref name="jcast">{{Cite web|url=https://books.j-cast.com/book046/2016/04/28004821.html|title=フムフムのコラム 太宰治のパクリ疑惑。『女生徒』と『俗天使』を検証する|author=忌川タツヤ|website=BOOKウォッチ|publisher=J-Cast|date=2016-04-28|accessdate=2021-08-09}}</ref>。
 
1938年9月、この日記を太宰に郵送。太宰の妻・[[津島美知子]]によると、原稿を依頼されていた太宰はこの日記が届いたことを「天佑」と感じたという<ref name="jcast"/>。翌[[1939年]]、太宰がこの日記を一日の出来事に圧縮する形で短篇「女生徒」を書き上げ、『[[文学界]]』4月号に発表。有明は太宰からこの掲載誌と単行本『女生徒』を贈呈されて感激した。さらに、1939年発表の太宰の小説「[[俗天使]]」に、主人公の作家が「書いてみた」として記す手紙文の中には、淑が太宰に『女生徒』の礼状として送った手紙が流用された<ref name="jcast"/>。太宰は、知人の編集者と淑の「見合い」もセッティングしたという<ref name="jcast"/>