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[[天宝 (唐)|天宝]]14載([[755年]])11月、中国において[[節度使]]の[[安禄山]]が唐朝に対して反旗を翻し([[安史の乱]]の始まり)、瞬く間に首都圏を制圧した。これにより[[玄宗 (唐)|玄宗]]は[[蜀州|蜀]]の地へ逃れ、翌年([[756年]])帝位を太子の李亨([[粛宗 (唐)|粛宗]])に譲り、自らは[[太上皇]]となった。
[[至徳 (唐)|至徳]]元載([[756年]])7月、粛宗は[[霊武]]で即位すると、
至徳2載([[757年]])2月、葛勒可汗はまた首領および多覧葛の将軍ら15人に入朝させた。9月、粛宗は李承寀に開府儀同三司を加え、宗正卿に拝し、迴紇公主を納めて妃とさせた。葛勒可汗は太子の[[葉護太子|葉護]](ヤブグ)を遣わして帝徳らの兵馬4千余衆を統領させ、唐の助国討逆を命じた。粛宗が[[元帥]]の広平王李俶(後の[[代宗 (唐)|代宗]])に命じて葉護と会見させると、2人は兄弟の契りを結び、葉護は広平王を兄と呼んだ。こうして両国の間で同盟が成立すると、回紇からは葉護と[[僕固懐恩]]が回紇軍を指揮して安禄山討伐にあたった。唐・回紇連合軍は11月までに首都の西京([[長安]])、副都の東京([[洛陽]])を奪還することに成功する。
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