「松方正義」の版間の差分

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同年開催された[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万国博覧会]]において、副総裁であった松方は、暗殺された[[大久保利通]]の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務めている。
 
その後、帰国した松方は、明治14年([[1881年]])7月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、[[明治十四年の政変|政変]]によって大隈が失脚すると、[[参議]]兼大蔵卿として復帰し、日本に[[中央銀行]]である[[日本銀行]]を創設した。後の明治16年([[1883年]])に、松方は[[明治天皇]]に働きかけて、レオン・セイに[[勲一等旭日大綬章]]が贈られるように図っている。
 
松方は財政家として、政府紙幣の全廃と[[兌換紙幣]]である[[日本銀行券]]の発行による[[紙幣整理]]、[[煙草税]]や[[酒造税]]や[[醤油税]]などの増税や政府予算の圧縮策などの[[財政政策]]、[[官営模範工場]]の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、[[インフレーション]]も押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻な[[デフレーション]]を招いたために「'''[[松方デフレ]]'''」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。
 
なお、現在の日本に於ける[[会計年度]]「'''4月 - 3月制'''」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年([[1884年]])10月のことである<ref>{{Cite journal|和書 |author=柏崎敏義 |title=会計年度と財政立憲主義の可能性--松方正義の決断 |journal=法律論叢 |issn=03895947 |publisher=明治大学法律研究所 |year=2011 |month=feb |volume=83 |issue=2・3 |pages=97-133 |naid=40018839378 |url=https://hdl.handle.net/10291/11753}}</ref>。
 
=== 総理大臣および大蔵大臣として ===
また、[[栃木県]][[那須]](現在の[[那須塩原市]])に[[千本松牧場]]を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子・[[大正天皇|嘉仁親王]]を招くなどの社交の場とした。明治36年(1903年)から[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]。大正6年([[1917年]])から[[内大臣府|内大臣]]を務めた。内大臣時代は[[宮中某重大事件]]・[[大正天皇]]の病気による[[摂政]]設置などの問題に遭遇した。
 
伊藤博文や山縣有朋らの死後は元老を主導する立場となり(といっても山縣の死後には元老は松方と[[西園寺公望]]のみとなっていた)、[[加藤友三郎内閣]]の成立などに関与した。大正13年([[1924年]])7月2日、[[呼吸不全]]により死去。享年90(満89歳没)。東京三田の自宅で[[国葬]]が執り行われた。[[墓所]]は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[青山霊園]]。
 
[[1934年]]([[昭和]]9年)7月2日午後2時に松方公十年祭が[[青山霊園]]で盛大に行われ、[[斎藤実]][[首相]]以下、[[鈴木貫太郎]][[侍従長]]、[[若槻禮次郎]][[民政党]][[総裁]]、[[牧野伸顕]][[内大臣]]らが出席した<ref>昭和9年7月3日付『[[東京朝日新聞]]』</ref>。
* 松方は女好きで、非常に子沢山であり、[[早世]]した2男も含めて15男11女の26子があった。或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。
* 松方と接したことのある[[尾崎行雄]]は松方を「鈍重」と評し、「(松方が)もし薩摩人でなかったら総理大臣になれなかったろう。先輩が皆没したため回り回って薩摩の代表になった」にすぎないと記している<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=ZTmLHXsbP1wC&pg=PT91 松方正義公]『近代快傑録』尾崎行雄、千倉書房, 1934 </ref>。
* 歴代内閣総理大臣経験者では、一番生年月日が早く([[1835年]][[3月23日]]生まれ)、 [[山県有朋]]が死去した[[1922年]]〈大正11年〉[[2月1日]]から自身が死去する[[1924年]]〈[[大正]]13年〉[[7月2日]]までは存命中の最古参の総理大臣経験者となっていた。また、西園寺公望に抜かれるまで歴代総理大臣の最長寿記録を保持していた(現在の記録は[[東久邇宮稔彦王]]の102歳)
 
== 栄典 ==