「木戸孝允」の版間の差分

[[1858年]]の[[安政の大獄]]以降、[[薩摩藩]]、[[水戸藩]]、[[越前藩]]など諸藩の[[尊王攘夷]]の志士たちと広く交わるようになり<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81-16197#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) 木戸孝允](コトバンク)</ref>、[[高杉晋作]]や[[久坂玄瑞]]らと並んで藩内の[[長州正義派|尊王攘夷派]]の指導者となった<ref name="asahi"/>。[[1862年]]以降には藩政の要職に就く<ref name="mypedia"/>。[[1864年]]の[[池田屋事件]]及びその直後の[[禁門の変]]により、但馬[[出石]]で8ヶ月の潜伏生活を余儀なくされた<ref name="asahi"/>。高杉晋作らが藩政を掌握すると帰藩し、[[1865年]]に藩主より「木戸」の苗字を賜った<ref name="nipponica" />。[[1866年]]には藩を代表して[[薩長同盟]]を締結している<ref name="asahi"/>。
 
新政府成立後には政府官僚として[[太政官]]に出仕し、[[参与]]、総裁局顧問、[[参議]]に就任<ref name="nipponica"/>。[[1868年]](慶応4年=明治元年)に[[五箇条の御誓文]]の起草・監修にあたり[[明治維新]]の基本方針を定めた他、[[版籍奉還]]や[[廃藩置県]]など、封建的諸制度を解体して[[市民社会|近代社会]](市民社会・資本主義社会)と中央集権国家確立をめざす基礎作業に主導的役割を果たした<ref name="nipponica"/><ref name="britanicca"/>。[[1871年]]には[[岩倉使節団]]に参加しており、諸国の憲法を研究した<ref name="nipponica"/>。[[1873年]]に帰国したのちはかねてから建言していた憲法や[[三権分立]]国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では[[資本主義]]の弊害に対する修正・反対や、国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の[[士族]]授産を推進した。また内政優先の立場から[[岩倉具視]]や[[大久保利通]]らとともに[[西郷隆盛]]の[[征韓論]]に反対し、西郷は下野した<ref name="plus">[https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81-16197#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus デジタル版 日本人名大辞典+Plus 木戸孝允](コトバンク)</ref>。
 
憲法制定を建言していたが、大久保利通に容れられず、[[富国強兵]]政策に邁進する大久保主導政権に批判的になり、政府内において啓蒙官僚として行動<ref name="nipponica"/>。[[1874年]]には[[台湾出兵]]に反対して参議を辞した<ref name="nipponica"/>。翌年の[[大阪会議]]においては将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保批判をすることが多かったため、晩年は政府内で孤立しがちだった<ref name="asahi"/>。地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、復職後は健康が優れず、[[西南戦争]]中の[[1877年]](明治10年)5月26日に出張中の京都において病死した。西南戦争を憂い「西郷よ。いいかげんにしないか」と言い残したという<ref name="asahi"/>。
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