「田村正和」の版間の差分

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<!--出演した程度の記述ならいいが、出典の無い記述はしないこと、信頼性の薄いマイナーゴシップ週刊誌等からの記述をしないこと -->
=== 幼少期 ===
父阪東妻三郎が建てた[[阪東妻三郎プロダクション|阪妻プロダクション]]の跡地に建つ[[東映京都撮影所]]近くの京都太秦に生まれる<ref name="京都新聞" /><ref name="uzumasa" /><ref name="中日新聞210519" /><ref name="Sma station" /><ref name="economist">{{Cite web |title=追悼・田村正和 映画界に所を得ず、テレビに越境して花開いた最後の二枚目 |work=[[週刊エコノミスト|週刊エコノミスト Online]] |date=2021-05-24 |author=伊藤彰彦 |url=https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210524/se1/00m/020/002000d |accessdate=2021-05-26 |publisher=[[エコノミスト (日本の雑誌)|エコノミスト]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210524083622/https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210524/se1/00m/020/002000d |archivedate=2021-05-24 }}</ref>。その後同じ京都の嵯峨野に移住したが<ref>{{Cite news|url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83820?page=3|title=「無名の兄」が明かす 弟・田村正和との「帰らざる日々」3|work=週刊現代|accessdate=2021-06-08|date=2021-06-07}}</ref>、世田谷へ移住、小学4年生(9歳の時)に父阪東妻三郎を亡く<ref name="日本映画人" /><ref name="economist" />、世田谷へ移住。田村は幼い頃、なんとなく父親のしている仕事をしたいと思っており<ref name="Sma station" />、それを知った父・阪東妻三郎が大変喜んだと語っている<ref>鳴門秘帖 ガイドブック 上 NHKドラマ制作班 p.149</ref>。また「僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました」とも話していた<ref>スタア(平凡出版)1975年7月号 p.108</ref>。父とは普通の親子の様に手を繋いで町を歩いたり、散歩したり、映画を見に行くこともない関係であったが、丹後の宮津の定宿に毎年夏に行った時だけは一緒に遊んだり、海で泳いだりしたことがとても嬉しかったと語り、演技の影響は特に受けていないが、母から聞いた父の役者としての生き方や姿勢は影響を受けたかもしれないとも語っている<ref name="田村正和写真集" />。成城学園中学校に進学後、中高時代にはバスケットボール部に所属していた<ref>{{Cite news|url=https://fujinkoron.jp/articles/-/4042?page=2|title=田村亮「兄・田村正和の葬儀は身内9人だけで。派手にせず静かに見送った」その2 「77歳は気をつけたほうがいいね」とは話していた|publisher=婦人画報|date=2021-06-22|accessdate=2021-06-22}}</ref><ref name="田村正和写真集" />。
 
=== 役者の道へ - 松竹時代 ===