「書院 (東アジア)」の版間の差分

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清末、科挙が廃され、書院は「学堂」と改められた。これが近代、中国の大学の母体となっていった。
 
[[中華人民共和国]]成立後、[[文化大革命]]中の[[批林批孔運動]]による[[儒教]]排斥に伴い各地に残る書院建築物に対する破壊行為が横行したが<ref>[http://www.dongboshuyuan.com “不断革命”的后果 - 历史·文化-东博书院]</ref><ref>白鹿洞書院のようにをはじめとして[[劉少奇]]や[[周恩来]]あるいは[[ホー・チ・ミン]]らによって保護されたものもある</ref>、1990年代以降復興再建が進められている。白鹿洞書院は[[世界遺産]]である[[廬山]]の、嵩陽書院も[[「天地の中央」にある登封の史跡群]]の構成資産に含まれることから[[観光地]]化([[遺産の商品化]])が著しい。
 
== 台湾の書院 ==
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== 日本の書院 ==
書院は科挙制度と関係するため、科挙が根付かなかった日本では中国や韓国のような書院も根付くことはなかったが、[[江戸時代]]には[[藩校]]に対し[[私塾]]や[[寺子屋]]などが私塾公権力とかかわりのない教育機関という意味では書院に相当する。むしろ日本では[[書院造り]]のような[[建築]][[様式]]、書院式[[庭園]]などに発展した。
{{Main|日本の私塾一覧}}
 
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蔵書が転じて日中韓では[[出版社]]や[[書店]]の[[社名]]に「〇〇書院」と用いられ(例:[[帝国書院]])、[[ベトナム]]ではThư viện(トゥーヴィエン)は[[図書館]]の意味にもなっている。
 
中国や韓国の書院は日本の書院造りのように明確な形式の建築様式がなく、[[時代]]や地域の[[風俗]]・[[伝統]]に応じて様々な構造で建てられ(朝鮮半島では[[韓屋]]風)、転じて現代では韓国や台湾で[[図書館]]や[[学習塾]]のビル外観に書院を連想させるデザインを採用する事例もある。
 
== 脚注 ==