「五井戦争」の版間の差分

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一方の義軍府側は、最初に長須賀村の泉著寺を本営として、その後真里谷に移したとされるが詳細な動向は不明であった。また、義軍府総大将福田八郎右衛門道直の戦後の動向については一切の記録が存在しない。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p264}}</ref>
 
真里谷に駐屯していた義軍は、下総国小見川の鹿島神宮社へ屯集していたところを官軍に説諭され、小銃と弾薬を押収された上で江戸に連れ帰ったと考えられており、これらの部隊は殆ど戦闘もせずに撤退した。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上) 大山「「復古外記」(東海道戦記十二)の閏四月二十五日の田安、広瀬の上申書の中に「房総脱走の大隊長以下徒五百四十三人が下総国小見川(銚子西北二十五キロ、利根川右岸。内田正学(一万石)の治所)鹿島神宮社家へ屯集していたのを招撫し、小銃四百七十挺と弾薬三千発とを押収し、閏四月二十五日江戸に連れ帰った」とある。これが真里谷駐屯の二大隊の主力と判断される。」|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p264}}</ref> また、撤兵隊指図役頭取の仙石釩三郎率いる150名弱の部隊は、詳細な行程は不明なものの、日光山に向かって進発し、宇都宮付近が既に官軍に占領されている事を知ると迂回して、下総常陸から那珂川を遡った。しかしこの部隊は閏4月14日に那珂川左岸で薩摩藩、[[宇都宮藩]]、[[大垣藩]]の奇襲攻撃を受け、13名の戦死者を出して散乱してしまった。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p264~p265 p302~p305}}</ref>
 
こうして徳川義軍は壊滅し、房総は新政府が平定する所となった。市川・船橋戦争から始まった房総の戦闘は瞬く間に官軍の圧勝という形で終結したのである。徳川義軍の敗因には、義軍府側の首脳部に確固たる人材が全く存在せず、精鋭とされた撤兵隊自体が実際には戦意に乏しく評判倒れの結果に終わったことが挙げられる。一部は[[函館戦争]]まで抗戦したものの、徳川義軍府の主力が反抗することはこの五井戦争以降完全に不可能となったのである。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p267}}</ref>