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== 伝説・歴史 ==
[[File:Bôzyûzan.jpg|thumb|300px|寺屋敷跡にたつ33番と番外6番の観音像<br>石川理紀之助の記録によるとこの石像左前方に寺があった]]
房住山は平安時代前期に天台山の名前で開かれていた。坂上田村麻呂の蝦夷征伐により、長面兄弟征伐の戦場となり堂塔が崩れるなど大きな被害を受けたとされる。長面三兄弟の阿計徒丸(あけとまる)、阿計留丸(あけるまる)、阿計志丸(あけしまる)は額からあごの先まで2尺3寸もあり、身長も一丈(約3m)あったという。この戦いでは、いくつもの伝説が近辺の地区の地名と関連づけられ残されている。ただ、史実では坂上田村麻呂はこの土地に到着していない。戦いの後、山は繁栄を取り戻し宿坊も多く建てられ、房住山と呼ばれるようになった。以後繁栄と衰亡を繰り返したが、江戸時代初期にはすっかり寂れていた。房住山の大幢寺が焼けた後は、杉本房最勝院だけがとどまって法灯を守っていた。しかし、明治になって間もなく[[廃仏毀釈運動]]によって修験寺院はすべて廃寺になった。今日房住山には寺屋敷という地名だけが残されている<ref name="BOU"/>。