「森山季定」の版間の差分

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陸奥[[津軽地方|津軽]]深浦郷<ref>『北の環日本海世界』([[村井章介]]・[[斉藤利男]]・[[小口雅史]]編、山川出版社、2002年、ISBN 4634605309)によれば当時深浦郷は[[出羽国]][[檜山郡 (出羽国)|檜山郡]]に含まれていた。</ref>森山館主であった季定は、[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])、[[安東尋季]]に謀叛を起こし森山館に籠城するが、攻め寄せた尋季と、増援に来た蝦夷の被官[[蠣崎季広]]に館を包囲され落城、季定は自害した。
 
出羽国河北郡深浦森山の館主の飛騨弾守季定が[[1546年]](天文15年)春に[[安東氏]]に背いて討たれたという記録が、[[松前藩]]の歴史書『[{{NDLDC|1230384/14}} [[新羅之記録]] ]』にある。
 
飛騨季定(ひだすえたか)が謀反を起こすと、これに[[檜山城]]より[[安東尋季]]<ref>安東家の一部の文書では尋季はこのとき既に死没しているが誤記と思われる</ref>親子が押し寄せて来た。[[蠣崎季広]]は搦手の大将として参加する、急の飛脚が告げられてきた。季広は人数をそろえ、船に乗り連ね[[小泊村|小泊]]に渡り、3月5日には森山に到着した。同15日、館の内より水桶を担いで出入りする者を見て、遥かに館の麓からこれを射つと、矢は当たり後ろから胸板を射通した。森山の館は程なくして落城した。生け捕られた者どもから「館内には水が無く、敵方に悟られない様にと水を汲む真似をしていたところ、射殺された
」と聞いた。敵方の落城はこれが原因であったという。季広の朝臣の矢一つによって、飛騨季定を自害に追い込んだのである。この弓は細い竹を組み合わせた細箔<ref>実態は分からないが『福山秘府』にも「その時季広公は、敵の将に一射しことごとく大敗させた。これよりこの弓の名は「底箔」という。『新羅』の記中に「細箔」とあるのはこれである」とある。</ref>という<ref>『現代語訳 新羅之記録』、松前景廣、無明舎出版、[[2013年]]3月、p.40-41 </ref>。
 
== 脚注 ==