「摩阿姫」の版間の差分
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天正13年(1585年)閏8月、秀吉は[[越中]]の[[佐々成政]]を成敗し、凱旋して[[金沢城]]に立ち寄り、前田利家の歓待を受けた。この時に14歳であった摩阿は秀吉に伴われて大坂におもむき秀吉の側室になったとされるが{{Sfn|渡辺|1980|p=217}}、実際に上洛したのは天正14年の春頃とも指摘されている{{Sfn|桑田|1972|p=20}}{{Sfn|岩沢|1988|p=333-334}}。彼女は体が弱く、[[有馬温泉]]に湯治に出かけたこともある{{Sfn|桑田|1972|p=89}}。文禄元年12月26日の秀吉直筆消息が「加賀殿」の呼称の初見であり、あて書きに「かゝ殿」としている{{Sfn|桑田|1972|p=22}}。文禄3年(1594年)伏見城が竣工されると、伏見の城内に新築された前田邸に預けられた。父親の邸宅に居を構えたことは、他の側室には例をみないことであり、これは秀吉が摩阿との逢瀬を楽しみながら利家と密談できることを意味しており極めて政治的な意味があった<ref>{{Citation|和書|author=宮本義己|authorlink=宮本義己|chapter=前田利家と豊臣秀吉|editor=花ヶ前盛明|title=前田利家のすべて|year=2001|publisher=新人物往来社|pages=39-41}}</ref>。[[慶長]]3年(1598年)3月に秀吉が催した[[醍醐の花見]]では5番目の輿にその名が見え{{Sfn|桑田|1972|p=89}}、一首「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」を詠んでいる。この後、秀吉の存世中に、側室を辞めた{{Sfn|桑田|1972|p=91}}。
その後は権大納言・[[万里小路充房]]の側室となって
== 登場作品 ==
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