「天正壬午の乱」の版間の差分

出典を伴わない、利用者の情報の合成による論評を除去。(2回目)
(典拠は平山の本、北条記、北条五代記、北条盛衰記と書いてありますよね?ノートもご参照下さいね?)
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{{分割提案|若御子対陣|date=2021年8月}}
{{出典の明記|date=2021-7-5}}
{{Battlebox
|battle_name=天正壬午の乱
|image=
|caption=
|conflict=[[戦国時代 (日本)]]
|date=[[天正]]10年([[1582年]])[[6月 (旧暦)|6月]] - [[10月29日 (旧暦)|10月29日]]
|place=[[甲斐国|甲斐]]・[[信濃国|信濃]]・[[上野国|上野]]
|result=北条・徳川の講和により終結
|combatant1=[[北条氏|北条]]軍 [[ファイル:Mitsuuroko.svg|15px]]
|combatant2=[[徳川氏|徳川]]軍 [[ファイル:Tokugawa_family_crest.svg|15px]]
|combatant3=[[上杉氏|上杉]]軍[[File:Japanese Crest Uesugi Sasa of Kenmonshokamon.svg|上杉氏竹に雀|15px]]
 
|commander1=[[北条氏政]]<br />[[北条氏直]]<br />[[北条氏忠]]<br />[[北条氏勝]]<br />[[北条氏邦]]など
|commander2=[[徳川家康]]<br/>[[依田信蕃]]<br />[[酒井忠次]]<br />[[鳥居元忠]]など
|commander3=[[上杉景勝]]<br/>[[小笠原洞雪斎]]
|strength1=53,000以上<br />10,000(黒駒合戦)
|strength2=10,000以上<br />2,000(黒駒合戦)
|strength3=不明
|casualties1=300(黒駒合戦)
|casualties2=不明
|casualties3=不明
|campaign= 徳川家康の戦闘
}}
'''天正壬午の乱'''(てんしょうじんごのらん)は、[[天正]][[壬午]]年(天正10年・[[1582年]])に[[武田氏]]の旧領にあたる[[上野国|上]]・[[甲斐国|甲]]・[[信濃国|信]]・[[駿河国|駿]]地方で起きた戦乱の総称、同年3月の[[織田信長]]の武田攻め([[武田征伐|甲州崩れ]])から同年6月の[[本能寺の変]]後の[[#若御子対陣|若御子対陣]]に至る一連の動乱を指す<ref>平山優『天正壬午の乱 増補改訂版』戎光祥出版、2015年、5頁</ref>。
 
 
また織田氏の遺領の領有を巡り在地の勢力が抗争を続けたという見地からは、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡に伴う[[徳川家康]]の関東移封と豊臣系の大名配置、慶長3年(1598年)の[[上杉景勝]]の会津移封により、在地の大名が旧領から切り離され、[[織豊政権]]による支配が確立するまでが画期とされている<ref>「近世の幕開け」『日本城郭体系第8巻』41-42頁</ref>。
 
なお、平山の2015年の『天正壬午の乱 増補改訂版』5頁に「近世の軍記物や江戸幕府編纂の諸記録」および『[[甲斐国志]]』などに「壬午の役」「壬午の合戦」等と記述されているとの言及があるが、「近世の軍記物や江戸幕府編纂の諸記録」とはどの記録のどこに書いてあるのか指示先が明確にされておらず、少なくとも『[[北条記]]』や『[[北条盛衰記]]』、[[徳川氏創業史]]のうちいくつかの軍記には、同年秋の後北条氏と徳川氏の対陣を「若御子対陣」と定義している例は確認できても、平山のいうような用例は確認できない。
 
== 甲州征伐 ==
上野・甲斐・信濃の3か国を統治していた織田氏家臣のうち、河尻が死亡し、[[滝川一益]]・[[森長可]]が敗走したことを確認した家康は、[[明智光秀]]を討った[[羽柴秀吉]]と連絡した(根拠史料)。
 
7月7日に秀吉は、家康に、軍勢を派遣して上・甲・信3か国を確保することを認める書状を送った<ref>柴裕之「織田勢力の関東仕置と徳川家康」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年</ref><ref>ここでの家康の立場、行動は独立した大名としてではなく、織田体制下の一大名として北条氏の討伐を目的にしたものとされている({{Cite journal|和書 |author=宮川展夫 |month=mar|year=2012|title=天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/32738/|journal=駒沢史学 |issnissue=045078|pages=19-6928 37|publisher=駒沢史学会 |yearissn=2012 |month=mar |issue=78 |pages=190450-37 6928|naid=120006617561 |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/32738/}})(谷口、2011、p.4)。なお、秀吉の書状が家康に送られる前に開かれた[[清洲会議]]でも、家康の行動は織田氏重臣の同意が得られたと考えられている(柴裕之『清須会議』戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4864033015。pp49-50.)</ref>。
 
=== 北条氏の進軍 ===
* {{Cite book|和書|author=平山優 |year=2015 |title=増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史 |publisher=戎光祥出版 |ref={{Harvid|平山|2015}}}}
* {{Cite book|和書|author=石川博 |year=2014 |title=甲斐 第134号 |chapter=『甲斐国志』の編纂、執筆について |publisher=山梨郷土研究会 |ref={{Harvid|石川|2014}}}}
 
{{Campaignbox-bottom|徳川家康の戦闘}}
 
{{デフォルトソート:てんしようしんこのらん}}