「榎本武揚」の版間の差分

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|画像説明 = 幕末の榎本
|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = [[天保1836年]]7年[[81025日 (旧暦)|8月255日]]<br />([[1836年天保]]7年[[108525日 (旧暦)|8月25日]])
|出生地 = {{JPN}} [[武蔵国]][[江戸]][[下谷区|下谷]][[御徒町]]<br />(現[[東京都]][[台東区]][[浅草橋]])
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1836|10|5|1908|10|26}}
}}
 
'''榎本 武揚'''(えのもと たけあき、[[1836年]][[10月5日]]〈[[天保]]7年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]〈[[1836年]][[10月5日]]〉 - [[1908年]]〈[[明治]]41年〉[[10月26日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Enomoto-Takeaki Enomoto Takeaki Japanese naval officer and statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[日本]]の[[武士]]([[幕臣]])、[[化学者]]、[[外交官]]、[[政治家]]。最終[[軍隊の階級|階級]]は[[大日本帝国海軍|海軍]][[中将]]。[[栄典]]は[[正二位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[子爵]]。[[仮名 (通称)|通称]]は'''釜次郎'''{{refnest|group="注"|兄・鍋太郎([[榎本武与]])とともに、[[鍋]]と[[釜]]があれば食うには困らないという意味で名づけられた{{Sfn|合田一道|2014|p=13}}。}}、[[雅号|号]]は'''梁川'''(りょうせん){{refnest|group="注"|出生地である「柳川横町(近所に[[柳川藩]]邸があった)」にちなむ。但し柳川では[[柳川鍋]]に通ずるため、梁川としたとされる{{sfn|加茂儀一|1988|p=35}}。}}。榎、釜を分解した「'''夏木金八'''」という[[変名]]も用いていた{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=210}}{{sfn|合田一道|2014|pp=136-137}}。俗に「ぶよう」と呼ばれることもあった <ref>{{Cite journal |和書|author = 三浦直人|authorlink = 三浦直人|title = 伊藤博文をハクブンと呼ぶは「有職読み」にあらず : 人名史研究における術語の吟味 |date = 2017|journal = 漢字文化研究|volume = 7|issue = |pages = 21-41 | publisher= |url = http://www.kanken.or.jp/project/data/investigation_incentive_award_2016_miura.pdf}}、32-33p</ref>。
 
[[伊能忠敬]]の元[[師弟|弟子]]であった幕臣・[[榎本武規]](箱田良助)の次男として生まれる。[[昌平坂学問所]]、[[長崎海軍伝習所]]で学んだ後、幕府の[[開陽丸]]発注に伴い[[オランダ]]へ[[留学]]した。帰国後、[[幕府海軍]]の指揮官となり、[[戊辰戦争]]では旧幕府軍を率いて[[蝦夷地]]を占領、いわゆる「[[蝦夷共和国]]」の総裁となった。[[箱館戦争]]で敗北し[[降伏]]、東京の牢獄に2年半投獄されたが、敵将・[[黒田清隆]]の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。[[開拓使]]で[[北海道]]の資源調査を行い、駐[[ロシア帝国|露]][[特命全権公使]]として[[樺太千島交換条約]]を締結したほか、[[外務大臣 (日本)|外務大輔]]、[[海軍卿]]、駐[[清]]特命全権公使を務め、[[内閣 (日本)|内閣]]制度開始後は、[[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]]・[[文部大臣]]・[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[農商務省 (日本)#歴代の農商務大臣等|農商務大臣]]などを歴任、子爵となった。また、[[殖民協会]]を創立し、[[メキシコ]]に[[移民|殖民団]]を送ったほか、[[東京農業大学]]の前身である徳川育英会育英黌農業科や、[[東京地学協会]]、[[電気学会]]など数多くの団体を創設した。
== 生涯 ==
[[伊能忠敬]]の元[[師弟|弟子]]であった幕臣・[[榎本武規]](箱田良助)の次男として生まれる。[[昌平坂学問所]]、[[長崎海軍伝習所]]で学んだ後、幕府の[[開陽丸]]発注に伴い[[オランダ]]へ[[留学]]した。帰国後、[[幕府海軍]]の指揮官となり、[[戊辰戦争]]では旧幕府軍を率いて[[蝦夷地]]を占領、いわゆる「[[蝦夷共和国]]」の総裁となった。[[箱館戦争]]で敗北し[[降伏]]、東京の牢獄に2年半投獄された。敵将・[[黒田清隆]]の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。[[開拓使]]で[[北海道]]の資源調査を行い、駐[[ロシア帝国|露]][[特命全権公使]]として[[樺太千島交換条約]]を締結したほか、[[外務大臣 (日本)|外務大輔]]、[[海軍卿]]、駐[[清]]特命全権公使を務め、[[内閣 (日本)|内閣]]制度開始後は、[[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]]・[[文部大臣]]・[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[農商務省 (日本)#歴代の農商務大臣等|農商務大臣]]などを歴任、子爵となった。また、[[殖民協会]]を創立し、[[メキシコ]]に[[移民|殖民団]]を送ったほか、[[東京農業大学]]の前身である徳川育英会育英黌農業科や、[[東京地学協会]]、[[電気学会]]など数多くの団体を創設した。
 
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1836年]]([[天保]]7年)、[[江戸]][[下谷区|下谷]][[御徒町]]柳川横町(現在の[[東京都]][[台東区]][[浅草橋]]付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御[[徒目付]]・榎本武規の次男として生まれる{{sfn|加茂儀一|1988|p=22}}。