「阿久利川事件」の版間の差分

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== 経緯 ==
[[陸奥国|奥州]]における[[安倍頼良]]の勢力に対し朝廷は、[[1051年]]([[永承]]6年)国司[[藤原登任]]に討伐を命じたが[[鬼切部の戦い|鬼切部(鬼首)の戦い]]で逆に敗北した。この失敗により、公家ではなく武士である源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍として東下させた。なお、1051年には陸奥守のみの任官であり鎮守府将軍任官は[[1053年]](天喜元年)とする見解が近年は増加している。頼義着任間もない[[1052年]](永承7年)、上東門院[[藤原彰子]]の病気平癒祈願の[[大赦]]布告が発せられ、罪を免ぜられたこともあり、頼良は源氏の棟梁である頼義に服従し、名を頼時と改め忠勤を約した。しかし1056年(天喜4年)頼義の任期が一旦終了し京へ帰途しようと、鎮守府(胆沢城)から国府(多賀城)に帰ろうとした時、阿久利川(磐井川?・一迫川)にて突然部下の[[藤原説貞]]、その子息[[藤原光貞|光貞]]等が賊徒に襲われた。襲撃の原因は、[[安倍頼時]]の長男、[[安倍貞任|貞任]]が光貞の妹を妻にしたいと願ったが、光貞はいやしい俘囚にはやらぬと拒んだのが原因だという。頼義は貞任を処罰しようとしたが、頼時は、'''「貞任ハ愚ナレドモ父子ノ情、棄テラレンヤ」'''と衣川の関を閉じて叛旗を翻した。このため再び兵を集め討伐することとした。
 
== 藤原経清の離反 ==