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天正12年([[1584年]])[[8月28日_(旧暦)|8月28日]](諸説あり{{Efn|{{Harv|矢野|1972b|pp=405-406}}には「天正十一年」のこととある。{{Harv|馬渡|1995|p=718|}}には「天正十三年乙酉正月」とある。{{Harv|犬塚|1992b|pp=342-343}}には「天正十二年九月」とある。}})、城島城も大友軍の攻撃を受けた。
 
『筑後国史』によると西牟田新助家親は、弟の[[西牟田家和|新右衛門家和]]に、「いかに戦国の世とは言え、昨日までの味方が島津や大友に媚びてその手先となるは口惜しき次第。今こそ不義の賊どもを滅ぼし、これがかなわなければ潔く死んで、忠義の重さを天下に示さん」と言ったという。すると弟は、「仰せのとおり。この一戦を戦うは武門の冥利につきます」と答え、一族、家士ら300騎を指揮して、弓、鉄砲を撃ちかけ、長刀、槍の切っ先を揃えて大勢の敵の中へ分け入って火花を散らして戦った。大友方は道雪が一族の[[立花鎮実]](戸次右衛門大夫){{Efn|道雪の親族に右衛門大夫と名乗ったのは、戸次(立花)右衛門大夫鎮実但馬了均という人のみ。のちの[[関ヶ原の戦い]]の際に[[鍋島直茂]]の柳川侵攻(江上・八院の戦い)で防戦して、次男の親雄とともに戦死した(「慶長5年於筑後国八院戦死」とある)『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』。しかし、立花(戸次)右衛門太夫が城島城の攻防戦で戦死したとする文献は『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史』等々多数ある。尚、「八院合戦」戦死説でも右衛門太夫の戦死場所は八院ではなく、城島付近となっている。}}を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り[[城島城]]を攻めた。立花勢は鎮実以下、[[竹迫鑑種]](竹迫日向守)と[[安倍親常]](安倍六弥太){{Efn|[[薦野増時]]の名代。『柳川藩叢書』・第一集によると、天正12年(1584年)8月28日、筑後城島の戦いで戦死した。なお、のちの三潴郡掃討戦で戦死した説もある。}}らが勇戦して数人を討ち取ったが、城主[[西牟田家親]]と[[西牟田家和]]兄弟の率いる城兵の激しい抵抗に遭った。立花勢は劣勢で、道雪は味方の危機を救うため次々と増援部隊を送ったが、そこへ[[龍造寺政家]]の援兵が到着したので、100~200100余りの死者と無数の負傷者を出して髙良山へ撤退した。立花勢の大将、戸次右衛門太夫も、この時戦死したと多くの書物が記しているが、異説もある{{efn|『薦野家譜』には、最終的には立花・高橋勢が城島城を筑後諸城と共に攻め落としたような記述が存在するが、『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史』等の肥前、筑後の文献ではみな立花・高橋勢は撃退されたとはっきり記述されている。またこの戦いの後、西牟田家親は立花・高橋勢に勝利した恩賞として龍造寺氏から新たな領地をもらっている。これらのことから推測すると、『薦野家譜』の記述には信憑性がなく、島津氏の北上→豊臣秀吉の九州国割りまでは西牟田氏が西牟田城を維持し続けたと考えられる。}}。
 
西牟田兄弟の武勇と城島城の堅固さは、九州に響いたという。