「飯能戦争」の版間の差分

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[[ファイル:渋沢平九郎自決の地(夏).jpg|250px|thumb|渋沢平九郎自決の地]]
越生方面に進軍した忍藩と広島藩は振武軍の[[甲府市|甲府]]方面への敗走の報告が届くと、忍藩は今市宿(現・[[越生町]]越生)の守りを固めた<ref name="広資料35-36"/>。広島藩は5月23日午後2時ごろ坂石(現・飯能市坂石)に向けて出立し、究意の者6人を斥候として先行させた<ref name="広資料35-36"/>。斥候が[[顔振峠]]の入り口に差し掛かったところ、六尺余の大男1人が旅装束姿で先を急いでいたため、斥候が呼び止めた<ref name="広資料35-36"/>。賊に間違いないと見て捕えようとしたところ直ぐに斬りあいとなり、究意の大力者でも生け捕りは困難となり討ち取った<ref name="広資料35-36"/>。その際、斥候2人が深手を負った<ref name="広資料35-36"/>。さらに越生の山中には数百人の賊が屯集していると見て、その日は一旦引き返し、5月24日に忍藩とともに当地に押し寄せたところ、賊ではなかったと分かり越生に戻った<ref name="広資料35-36"/>。広島藩は5月25日朝8時に越生を出立し坂戸で一泊した後、5月26日に川越城下に戻った(『慶応四年戊辰第一起神機隊奥州出軍日記』、以下『奥州出軍日記』)<ref name="広資料35-36"/>{{#tag:ref|広島藩隊長の連名で大総督府に宛てた報告では「黒山ト申所ニテ賊ノ敗卒ニ出合則取合候処、賊徒皆争先ヘ逃去リ一人打取申候」と二つの出来事が混同されあり、『奥州出軍日記』にある「六尺余の大男」については特に触れず、黒山で残党と対峙を掃討した際に1人を討ち取ったになっ記している(『広島藩隊長届出 大総督府宛』)<ref>[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、60頁</ref>。|group=注}}。『奥州出軍日記』にある「六尺余の大男」は[[渋沢平九郎]]だったといい、村人の談話によると、平九郎が斬りあいの末に午後4時ころ自決を試み、相手の銃弾によってとどめ自ら腹を裂き喉を刺して倒れた<ref name="関係史料集47">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、47頁</ref>。藩兵は銃弾を乱射してその首級を持ち去り、法恩寺の門前に晒され、した<ref name="関係史料集47"/>。遺体は僧侶村人の手で黒山[[全洞院]]に葬られ、首級も藩兵の去った後で法恩寺の林の中に葬られた(『渋沢平九郎伝』)<ref name="飯能炎上41"/><ref name="関係史料集47"/>。
 
忍藩は5月23日に秩父郷大宮(現・秩父市)へ立ち入った彰義隊の瀧川渡ら12人を取り調べ、飯能で討ちもらした残党として斬首した(『忍藩届出 大総督府宛』)<ref name="関係史料集61"/>。5月25日、同藩は振武軍の残党が[[寄居町|寄居]]に屯集しているとして一小隊を派遣した(『松平忠敬 武蔵忍家記』)<ref name="関係史料集61"/>。[[前橋藩]]は5月26日ころから領内の[[松山陣屋|武州松山陣屋]]付近を飯能戦争の脱走人が徘徊しているとして、周辺地域の捜索に乗り出した<ref name="関係史料集65">[[#飯能市郷土館 2012|飯能市郷土館 2012]]、65頁</ref>。そのうち一人を畠山村(現・深谷市畠山)[[満福寺 (深谷市)|満福寺]]で捕え、取り調べの後に討ち取った(『前橋藩記』)<ref name="関係史料集65"/>。