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[[ソルトレイクシティオリンピック]]では、直前に左足首を骨折し同種目で8位に終わり、2大会連続の金メダルとはならなかった。その後は[[韓国]]勢や[[アポロ・アントン・オーノ]]などの後塵を拝し、[[トリノオリンピック]]にも3大会連続で出場したもののすでに往年の力はなく、500メートルで予選敗退するなど振るわなかった。
[[2006年]][[5月15日]]に引退会見を行い、併せて競輪学校が入学試験における年齢制限のうち上限を撤廃したことを受けて競輪選手への転向を目指すことを表明。ただ、その時点ではオリンピックなど直近の世界大会で目立った成績を残していなかったことから、競輪学校の入学試験においては
競輪学校入学以前より元競輪選手である[[松本整]]が経営するスポーツジム、「CLUB KONG」([[京都府]][[長岡京市]])でトレーニングを積んでいた縁もあって、競輪選手としての登録地は京都となり、京都向日町競輪場をホームバンクとすることになった。競輪選手になるにあたっての師匠は[[村上義弘 (競輪選手)|村上義弘]](但し現在は師弟関係を解消している)。
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