「関東大震災」の版間の差分

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9月27日、[[帝都復興院]]が設置され、総裁の[[後藤新平]]により[[震災復興再開発事業#関東大震災|帝都復興計画]]が提案された。それは被災地を一旦すべて国が買い取る提案や、[[自動車]]時代を見越した[[100m道路]]の計画(道路の計画には震災前の事業計画だった低速車と高速車の分離も含まれていた)、[[ライフライン]]の[[共同溝]]化など、現在から見ても理想的な近代都市計画だったが、当時の経済状況や当時の[[政党]]間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強にまで削られて議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては[[神田駿河台]]の住民が猛反発した。この復興計画を縮小したことにより、図らずも[[東京大空襲]]時の火災の広がり方や、戦後の[[高度経済成長期]]以降の自動車社会になって、計画を縮小した影響が出てしまった。たとえば道路については[[首都高速]]などを建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園([[隅田公園]])の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を利用などして建設された)する必要があった。
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HIM Empress Tenmei's personal visit.jpg|赤十字病院を慰問する[[貞明皇后]](1923年9月15日)
HIH the Prince Regent viewing devastated Yokohama-restored.jpg|摂政宮(後の[[昭和天皇]])による横浜視察(1923年9月15日)
記念館跡を片付ける学生たち(1923年).jpg|焼け跡整理を行う明大生([[明治大学駿河台キャンパス]])
Yokosuka Naval Arsenal after Great Kanto earthquake of 1923.jpg|関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している。
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