「疋田氏 (佐竹家重臣)」の版間の差分

 
*'''疋田定常(柳塘)'''([[寛延]]3年(1750年)10月21日 - [[寛政]]12年(1800年)12月13日)
[[天明]]元年(1781年)11月1日から死没するまで秋田藩家老。名は定常(さだつね)、九華、また定常に復した。あざなは考祥、通称鶴治、斎(いつき)別号に自怡斎、聴松館。
[[松浦静山]]の名著『[[甲子夜話]]』に、こんな話がある-江戸の金貸しが秋田藩江戸邸に融通たものの、なかなか返済がない。やむなく町奉行に訴え出た。これに対し秋田藩では、「貧しい財政なので返せない。20年間幕府に藩の生計を委嘱しようか」と答えたので、奉行所でもあきれ顔した。佐竹義敦時代のことで、秋田城下では貸し金が戻らぬため、[[間杉屋五郎八]][[土崎]])の割腹事件もあったほどだ。
豪華殿様とよばれた半面、このような火の車の財政であったが、[[佐竹義敦]]・[[佐竹義和]]の二人の藩主に仕え、財政の苦難を知恵で幾度も切り抜けた。佐竹は破産したと称して大阪商人の証書を焼かせたり、幕府目代の藩派遣を止めさせたりしたのは、その一例である。
文人家老としても著名で、『自怡斎随筆』『東海道中記』『自怡斎吟稿』『柳塘詩集』『盗光伝』などがあり、また津村正恭『譚海』の序文も書いた。[[佐藤信淵]]を排斥したことでもも有名。墓碑は山本北山の文。51歳で江戸邸没。愿恭院殿結山政繩居士。墓は東京[[総泉寺]]と秋田市闐信寺。子が松塘である。 
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