「アルタン・ハーン」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 前半生 ===
1507年、ダヤン・ハーンの三男・[[バルス・ボラト・サイン・アラク晋王|バルス・ボラド・ジノン]](サイン・アラグ・ハーン)の次男として生まれる。母は[[ホソイ・タブナン]]の娘・ボダンである。なお、近年では1508年に生まれたとの説が有力である。
 
[[1519年]]に父が死去すると、その後を継いだ。この頃は、内モンゴルのトメト部を治める小領主に過ぎなかった。[[1524年]]に祖父が死去すると(近年では1516年又は1517年に死去したとの説が有力)、その後を継いだ[[ボディ・アラグ・ハーン]]の宗主権を認め、その治世に協力した。
 
[[1538年]]、内乱鎮圧の功績により、[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]を形容する際に使われる「ソート」(suu tu ; 天恵をもつ)の称号を与えられた。[[1542年]]には[[明]]遠征での功績により、「トゥシェート・セチェン・ハーン」(Tösheetü Sechen Khan ; 補佐する賢明なハーン)の称号を与えられ、正統ハーンのボディ・アラグ・ハーンを補佐する次席ハーンとなる。これにより、内モンゴル高原の西半分に遊牧するモンゴル右翼3万戸の最有力指導者となった。[[1550年]]にも明に侵攻し、[[北京市|北京]]にまで迫った([[庚戌の変]])。