「庄地区」の版間の差分

(→‎商業施設・商店舗: 参考出展と補足。)
==== 旧・国道2号路線 ====
===== 庄地区初の路線 =====
[[Fileファイル:中国JRバス0409.jpg|thumb|200px|国鉄バス時代のカラーリング。([[島根県]]登録の再現車両)<br />岡山市の撫川地区の営業所へ移転後、[[1970年代]]からは同じ面構えと配色の[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]製のバスが大量に配備されていた。<br />([[2004年]][[9月]]撮影)]]
庄地区の南部を東西に横断して古くから岡山市と倉敷市間の交通の要となって来た旧・[[国道2号]](現、[[岡山県道162号岡山倉敷線]])が通っている関係で、旧・[[国鉄バス]]が岡山県内二番目の路線として、[[1937年]]([[昭和]]12年)[[3月28日]]に[[岡山駅]] ⇔ [[倉敷駅]]間の19km区間で開業(通称、[[両備線]])<ref>水谷昌義「国鉄自動車路線網の盛衰(1)」、東京経済大学会誌No.230(平成14年7月発行)、pp.139-162より。</ref>した。その後、それまでの倉敷駅止まりであった路線をさらに、[[矢掛町]]路線・[[金光町]]路線などへと急速に拡大していった。また、[[1952年]](昭和27年)1月からは、地元大手の民間会社である[[両備バス]]との運輸協定により、両備バスが岡山~倉敷間の路線に乗り入れ、一日数便程度ながらも国鉄バスと共同のバス停を使うなど、通勤・通学の便利性は次第に向上していった。
 
この国鉄バスによる一連の路線拡大や、特に岡山倉敷間の輸送需要増大により、それまでの倉敷駅近くに設けられていた拠点車庫兼、岡山県内の総括店<ref group="注">庄地区から倉敷駅方面へ続く旧・国道2号沿いの[[両備バス]]倉敷営業所東隣の地域(現在の[[ドラッグコスモス]]倉敷駅前店ほか、隣接マンション建物地内など)に開設していた。しかしその後のマイカー普及による大打撃により、古い車庫を段階的に取り壊し、余剰となった敷地の一部を切り売りしながら規模を縮小した。その後、最後の路線となっていた「岡山倉敷線」の廃止となった[[2003年]]([[平成]]15年)[[3月31日]]限りで閉鎖となる。</ref>であった施設が手狭となり、新たに'''下庄地区'''東側に隣接する[[吉備町]]地区内の、旧・国道2号沿いの岡山市[[北区 (岡山市)|北区]]撫川(なつかわ)地<ref group="注">「現、[[中国JRバス]]岡山支店」の敷地および、西側に隣接する「[[くすりのレデイ]]撫川店」を併せた敷地。</ref>に、大型の整備工場を含む広大な敷地に実質、岡山県内の総括的な中核機能となる'''岡山自動車営業所'''」を[[1962年]]([[昭和]]37年)[[12月29日]]<ref>「岡山県バス沿線ガイド」、団法人岡山県バス協会(昭和63年発行)</ref>に開設した。
 
===== 清心学園専用路線 =====
[[Fileファイル:Chugoku-JR-Bus 534-9901O-1.jpg|thumb|200px|清心学園専用時代のカラーリング。(通称、'''青バス'''仕様車)<br />撫川地区・岡山営業所の整備工場内の[[ピット]]に跨る風景。<br />画像を拡大すると車体正面に加工された個々の写真が見える。<ref group="続き">例えば、正面左側ヘッドライトの右側角上および、車体右側外の縦長[[バックミラー]]上部には運転手。右側ヘッドライト真上には独り又は2人組みの生徒が写っている。</ref><br />また画像左端には、'''赤バス'''の一部が写っている。<br />([[2006年]][[7月1日]]撮影)]]
[[1964年]]([[昭和]]39年)[[9月]]に、この旧・国道2号沿いの庄地区内で、ほぼ中間地点(現、[[セブン-イレブン]]倉敷二子店付近)に程近い[[清心女子高等学校]]が二子地区に移転してきた関係で、JR中庄駅前まで乗り入れるなど基本的には登下校時に'''清心学園'''】・【'''清心学園専用'''】・【'''清心学園'''
'''中庄駅'''】の[[方向幕]]表示(バス車体により何れかの文言となる)で、'''清心学園''' ⇔ '''JR⇔JR中庄駅'''間の約2kmを運行する[[スクールバス]]の運行を行なってきた。この経緯として、当時は旧・国鉄が鉄道と路線バス事業を一体で運営し、しかも路線バス事業は鉄道の補完事業として緊密に繋がっていたために、中庄駅前(現在の北口側)の広場に、横長向き[[小判]]型のバス停を設置し<ref>[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1189199] 「国土地理院の空中写真」の中庄駅前ロータリーに写っている。([[1967年]](昭和42年)[[3月2日]]に撮影)</ref>、バスはぐるっと一周する事になっていた<ref group="続き">現在の大規模なロータリーが、ほとんど拡張すること無く設置できたほどの基礎的な敷地を、開設当時は人家の少ない田園地域ながらも既に有していた。また、川崎医大病院が開院するまでの旧2号の入口(現在のハローズ中庄店前の交差点)から駅前までの道路周りは、途中の集落と交わる十字路付近に数件程度の民家が点在する以外は、両側ともにほぼ一面の水田が広がっていた。</ref>このように、いわゆる[[田舎]]の小規模な駅にもかかわらず、旧庄村時代よりバスへの依存度は高かった。学園敷地内の本館前ロータリー ⇔ JR中庄駅間のいわゆる、スクールバスとして運行していた車両は、輸送距離は極端に短かいものの輸送開始以来長年に渡って、一般路線用の車両を使用していた。その後、いわば大事なお得意様サービスの一環として、[[2000年代]]に入り開始時期は不詳ながらも、庄新町路線開業に当たり[[1986年]]([[昭和]]61年)[[4月22日]]付けで、初めて導入された前後の乗降口が車体の全長に近い(詳しい構造は、[[#庄新町路線]]内の注釈を参照願う)、新タイプと同じ車両二台に専用の[[ラッピング]]を施し、事実上の清心学園専属のスクールバスとして登場した。2台のバス車体全面(屋根上も含む、車体の5面<ref>[http://www.shigeharuakiyama.com/bio/2011-IMG_4888.jpg 本館真前に揃ったラッピングバス|清心学園HPより。]</ref>)に、学生同士や[[シスター]]<ref group="注">キリスト系学校のために、教員と[[シスター]]を兼ねた職員も多数在籍していたため。</ref>のほか、顔なじみの複数人の運転手などを写したいわゆる、[[スナップ写真]]を数百枚を組み合わせて、[[モノクロ写真]]のイメージで赤っぽい仕様(通称、'''赤バス''')と、青っぽい仕様(通称、'''青バス''')の二種類に印刷した「ラッピングバス」を登場させて、地元でも大きな話題となった。基本的には学園の休校日を除き、一日の中で朝夕の登下校時に併せて数回しか運行せず、しかも実際はほとんどの時間を支店の車庫内で待機していた
 
このように、いわゆる[[田舎]]の小規模な駅にもかかわらず、旧庄村時代よりバスへの依存度は高かった。学園敷地内の本館前ロータリー⇔JR中庄駅間の、いわゆるスクールバスとして運行していた車両は、輸送距離は極端に短かいものの輸送開始以来長年に渡って一般路線用の車両を使用していた。その後、いわば大事なお得意様サービスの一環として、[[2000年代]]に入り開始時期は不詳ながらも、庄新町路線開業に当たり[[1986年]]([[昭和]]61年)[[4月22日]]付けで、初めて導入された前後の乗降口が車体の全長に近い(詳しい構造は[[#庄新町路線]]内の注釈を参照)、新タイプと同じ車両2台に専用の[[ラッピング]]を施し、事実上の清心学園専属のスクールバスとして登場した。2台のバス車体全面(屋根上も含む、車体の5面<ref>[http://www.shigeharuakiyama.com/bio/2011-IMG_4888.jpg 本館真前に揃ったラッピングバス|清心学園ホームページ]</ref>)に、学生同士や[[シスター]]<ref group="注">キリスト系学校のために、教員と[[シスター]]を兼ねた職員も多数在籍していたため。</ref>のほか、顔なじみの複数人の運転手などを写した、いわゆる[[スナップ写真]]を数百枚を組み合わせて[[モノクローム|モノクロ]]写真のイメージで赤っぽい仕様(通称、赤バス)と、青っぽい仕様(通称、青バス)の2種類に印刷した「ラッピングバス」を登場させ、地元でも大きな話題となった。基本的には学園の休校日を除き、一日の中で朝夕の登下校時に併せて数回しか運行せず、しかも実際はほとんどの時間、支店の車庫内で待機していた。
::* 岡山市撫川地区の支店車庫から、二台揃って<ref group="注">ただし、学年単位あるいはクラス単位の特別登校日や学園行事によっては、事前に学校からの連絡により1のみの場合もあった。</ref>台2km回送 → 学園本館前から2km営業 → 中庄駅から3.5km回送(積み残しの混雑時にはもう一度学園へ戻る)→ 支店車庫で終了。
 
::* 岡山市撫川地区の支店車庫から、2台揃って<ref group="注">ただし、学年単位あるいはクラス単位の特別登校日や学園行事によっては、事前に学校からの連絡により1のみの場合もあった。</ref>2km回送 → 学園本館前から2km営業 → 中庄駅から3.5km回送(積み残しの混雑時にはもう一度学園へ戻る)→ 支店車庫で終了。
という、ごく限られた日時と距離のために、走行中の姿を捉える機会は限られていた。特に、バスマニアの間では話題となった。これらの走行距離の伸びないチョイ乗り実態や、専用の大規模な整備工場と、[[自動車検査登録事務所|陸事]]指定の検査場(いわゆる、[[車検]]まで自社で出来る)まで営業所内に設けているような整備環境もあり、[[2011年]](平成23年)[[9月18日]]付けの'''青バス'''が廃車<ref>[http://www.nd-seishin.ac.jp/mb/blog/detail.php?id=2&eid=4815 青バスが今日で廃車|清心学園HPより。]</ref>になるまで、維持されていた。また、'''赤バス'''も数ヵ月後に廃車予定となっていた。
 
という、ごく限られた日時と距離のために、走行中の姿を捉える機会は限られていた。<!--特に、バスマニアの間では話題となった。-->これらの走行距離の伸びないチョイ乗り実態や、専用の大規模な整備工場と[[自動車検査登録事務所|陸事]]指定の検査場(いわゆる、[[自動車検査登録制度|車検]]まで自社で出来る)まで営業所内に設けているような整備環境もあり、[[2011年]](平成23年)[[9月18日]]付けの'''青バス'''が廃車<ref>[http://www.nd-seishin.ac.jp/mb/blog/detail.php?id=2&eid=4815 青バスバスが今日で廃車|清心学園HPより。ホームページ]</ref>になるまで維持されていた。また、'''赤バス'''も数ヵ月後に廃車予定となっていた。
 
===== 庄新町路線 =====
倉敷市との合併後、現在の'''庄新町地区'''における人口急増により、【'''庄新町'''】行きの新路線として[[1986年]](昭和61年)[[4月22日]]付けのダイヤ改正に伴い、庄新町倉敷間に5往復、庄新町岡山間に21往復という大規模なダイヤが設定された。また、この大量増発に伴い、国鉄バスは朝夕の満員時におけるダイヤの[[遅延]]対策として、乗降時間の効率化に威力を発揮寄与する[[乗降口]]が前部位と、最後部位に大きく離れた車種<ref group="注">[[Fileファイル:Chugoku-JR-Bus 538-1952OK.jpg|thumb|200px|岡山駅または、倉敷駅何れからも【'''庄新町下撫川'''】となる表示。<br />後部乗降口は、後輪の更に後ろに付いている。<br />([[2003年]][[1月3日]]岡山営業所にて撮影)]]それまでのバスは、岡山で始めて開業した倉敷市内の旧、岡山営業所時代では、[[車掌]]が同乗し乗降口が車体の中央一箇所のみの、旧式ボンネットタイプ(いわゆる、[[ボンネットバス]])から始まり、時代とともに完全[[ワンマン]]化後は乗降口が前輪より前側となる最前部位と、車体の中央部位との二箇所に分かれて設置されているタイプであった。また、その後の岡山市撫川地区へ移転後も、同様の流れで営業してきた(ただし、すでにボンネットタイプではなかった)。しかし、前側と中央側に別れたタイプは、前側乗降口からの乗車時(いわゆる「'''前乗り'''」)に、前払いとなる'''料金均一区間'''では例え満員状態でも、前側と中央側乗降口を同時に開いて乗客を効率よく裁ける。身近な事例として、[[岡電バス]]が伝統的に岡山市内中心部で「市内均一料金」として実地している。これとは対照的に、岡山県内の多くの事業社が取り入れている中央側乗降口より整理券を受け取る、いわゆる後乗り不均等区間での混雑時は、後部側(特に最後部席など)の下車乗客が前方に移動する流れと、途中の中央口から乗り込んでくる流れが狭い通路でぶつかることとなる。これにより朝夕の混雑が激しい路線では、大幅な[[遅延]]の原因となりうる。</ref>を初めて数台投入して対応していた。なお、この路線は国鉄バスを引き継いだ[[中国ジェイアールバス]](通称、JRバス)に引き継がれた
 
これとは対照的に、岡山県内の多くの事業社が取り入れている中央側乗降口より整理券を受け取る、いわゆる'''後乗り不均等区間'''での混雑時は、後部側(特に最後部席など)の下車乗客が前方に移動する流れと、途中の中央口からどんどん乗り込んでくる流れが、狭い通路でぶつかることとなる。これにより朝夕の混雑が激しい路線では、大幅な[[遅延]]の原因となりうる。</ref>を初めて数台投入して対応していた。なお、この路線は国鉄バスを引き継いだ[[中国ジェイアールバス]](通称、JRバス)に引き継がれた。
 
===== 行き先による弊害 =====
[[Fileファイル:Chugoku-JR-Bus 534-5497OK.jpg|thumb|200px|岡山駅 → [[天満屋]]経由 → 下撫川止まりとなる、下り線用の【'''下撫川'''】行き表示事例。<br />これに乗ると、終点バス停のわずか1つ先から始まる、庄地区南部のバス停には一切停まらない。<br />後部の右側([[シャッター]])建物は、一階が検査場で、二階は事務所。<br />左側に写っている大型の修理工場が、さらに続いている。<br />([[2001年]][[1月6日]]、岡山支店内で撮影)]]
近隣地区の岡山市北区撫川地区(旧・2号沿い)の、下撫川(しもなつかわ)バス停前に、岡山県内の基幹営業所が開設した事により、庄地区内の交通の便は飛躍的に向上した。特に旧・国鉄バス時代から始まり、倉敷市内から庄地区(岡山方面)へ向かう'''上り線'''のバス便は、終点となる【'''岡山駅'''】行き便が一応の基本となっている。しかしバス運行終了便として、昼間は少数例ながらも、夜間に必然的発生するいわゆる、最終便に近づくほど庄地区内の最も岡山側寄りとなる、現在の最終バス停である『'''瀬戸大橋温泉'''』<ref group="注">開業当初から昭和末期ごろまでは、下庄地内の『'''備中庄'''』バス停(現、ファマリーマート倉敷下庄店前のバス停)、その後の温泉施設開業により、現在は岡山市との境界線手前に新らたに設置された『'''瀬戸大橋温泉'''』バス停まで約500メートル延長された。</ref>を越えて、岡山市に入って最初のバス停となる『'''下撫川(しもなつかわ)'''』の真ん前に、前記した基幹営業所が移転したために'''下撫川'''】行き便が新たに生まれ、ここで事実上の途中打ち切り状態となっていた。これに伴う、'''庄地区までの『上り線』利用者'''には特に問題はなかった。
::* '''倉敷駅'''(上り線岡山方面【'''下撫川'''】行き)→→→→ 備中庄 → 瀬戸大橋温泉 → '''下撫川'''※終点。
::* '''倉敷駅'''(上り線岡山方面【'''岡山駅'''】行き)→→→→ 備中庄 → 瀬戸大橋温泉 → 下撫川 →→→→ '''岡山駅'''※終点。
 
ところが、これとは反対に倉敷方面便以上に通学通勤の利用者の多かった、岡山市内からのいわゆる「帰宅便」となる'''庄地区(倉敷方面)へ向かう『下り線』'''のバス便は、【'''倉敷駅'''】行き便<ref group="注">最盛期の岡山駅発、【'''金光駅'''】行きや【'''矢掛'''】行きが夫々の終点となる。また、旧・駅舎を取り壊し、北口駅前ロータリーのバス停を含め、[[1994年]]([[平成]]6年)[[2月10日]]に全面的に生まれ変わったJR[[中庄駅|JR中庄駅]]前を発着して、庄地区内全てのバス停を結ぶ【'''中庄駅'''】行きの便も含む。</ref>が基本となっているものの、上り線とは正反対の現象により特に最終便近くになると、うっかりまたは不慣れで【'''下撫川'''】行きに乗ってしまうと下車予定バス停の数箇所手前で強制終了となるリスクが付きまとっていた。
::* '''岡山駅'''(下り線倉敷方面【'''倉敷駅'''】行き・ほか、倉敷以西便)→→→→ 下撫川 → 瀬戸大橋温泉 → 備中庄 →→→→各方面の終点'''
::* '''岡山駅'''(下り線倉敷方面【'''下撫川'''】行き)→→→→ '''下撫川''' ※終点。(以後はすべで停車しない)→ ×瀬戸大橋温泉 → ×備中庄 → ・・・・
なお、この場合は数十分以上も最終便の【'''倉敷駅'''】行き便を待ち続けるか、終点となる下撫川バス停に設置されている公衆電話で<ref group="注">実際は営業所建屋の真横に電話ボックスが設置されており、地元のタクシー会社の電話番号も掲示されていた。</ref>家族やタクシーを呼ぶか、最悪の場合は徒歩帰宅となる。また、同じように注意を要するルートとして、大規模住宅地向けの'''岡山駅'''発【'''庄新町下撫川'''】行き(「庄新町」経由「下撫川」の意味)も、『'''瀬戸大橋温泉'''』バス停のわずか100メートル手前の「流通センター入り口」交差点から、旧・2号沿いを離れて一直線に北上して庄新町地区内を回り、同じルートから再び旧・国道2号と合流し、岡山市内に向けて最初の『'''下撫川'''』バス停で終了となっていた。これにより、多くの利用者がいる庄地区南部を結ぶ倉敷方面行きの各バス停利用者は注意が必要となる。特に特殊構造のバスまで投入して、開設当初は21便も運行していたこれらの全ての便が【'''庄新町下撫川'''】のために、従来から主力となっている庄地区南部の利用者が混乱する影響は、多少なりとも避けられなかった。
 
===== 時代に伴う終焉 =====
[[Fileファイル:JR bus chugoku tuyama daikou.jpg|thumb|200px|[[土砂崩れ]]で、一部の区間が運行できなくなったJR[[津山線]]の、JR[[金川駅]]へ岡山支店から派遣された、鉄道代行バス。<br />バス正面上の方向幕には、【'''鉄道代行'''】と表示されている。<br />([[2006年]][[11月25日]]撮影)]]
その後のマイカー普及による乗客の激減により、次第に路線は縮小され続けて[[2000年代]]に入ると、末期時には主力の「'''岡山倉敷間の路線'''」では、日中のダイヤで二時間以上の空白時間帯が生まれるなどと、ピーク時では10分間隔で運行されていた面影もなくなっていた。また、これから枝分かれしている「'''清心女子高校路線'''」は、事実上の[[スクールバス]]化で登下校時に特化したダイヤを安定して維持していたものの、「'''庄新町路線'''」も例外なくマイカーの普及により次第に減便となっていった。しかし、結局は、岡山地区からの路線バス撤退決定により、[[2003年]]([[平成]]15年)[[3月31日]]限りで清心女子高校路線の2km専用と、[[山陽本線]]の事故時に代替輸送する「'''[[バス代行|鉄道代行]]'''」に備えて数台の路線バスを残し、逆に[[夜行便]]を含む[[高速バス]]事業と貸切り事業に移行して、1937年3月より66年間も続いた路線バス事業に事実上の終止符を打ってしまった。これに伴い翌[[4月1日]]より、多くの学生が住んでいるものの、その一方で高齢化も進んでいるために撤退の影響が大きい岡山~倉敷間を、[[岡電バス]]と[[下電バス]]の共同運航<ref group="注">運行本数は岡電バスが主体となっている。また、JRバスと共用していた両備バスも、同時に両備グループ系列の岡電バスに移管。</ref>に移管となった。また、庄新町ルートは【'''庄パークヒルズ'''】行きの路線名に改名後、岡電バスに引き継がれ、この対応として近くの[[RSKバラ園]]入り口駐車場内に二台のバスを停泊させて、始発便に備えていた。しかし、庄新町地区内の更なるマイカー普及の影響により、ついに[[2010年]]([[平成]]22年)[[3月31日]] に路線休止となり、事実上の廃路線となってしまい、分譲後35年以上も経過した影響で、車の運転が出来ない高齢者の増えた庄新町地区では、交通難民状態になっている。また、バラ園待機のバスもなくなってしまった。さらに、最後まで残っていた清心女子高校路線もついに、[[2016年]](平成28年)4月1日に両備バスに移管された。これにともない、現在では'''一般路線用のJRバス'''は、岡山県内には一台も存在していない
 
これに伴い翌[[4月1日]]より、多くの学生が住んでいるものの、その一方で高齢化も進んでいるために撤退の影響が大きい岡山〜倉敷間を、[[岡電バス]]と[[下電バス]]の共同運航<ref group="注">運行本数は岡電バスが主体となっている。また、JRバスと共用していた両備バスも、同時に両備グループ系列の岡電バスに移管。</ref>に移管となった。また、庄新町ルートは【庄パークヒルズ】行きの路線名に改名後、岡電バスに引き継がれ、この対応として近くの[[RSKバラ園]]入り口駐車場内に二台のバスを停泊させて、始発便に備えていた。しかし、庄新町地区内の更なるマイカー普及の影響により、[[2010年]]([[平成]]22年)[[3月31日]] に路線休止となり、事実上の廃路線となってしまい、<!--分譲後35年以上も経過した影響で-->車の運転が出来ない高齢者の増えた庄新町地区では交通難民状態になっている。<!--また、バラ園待機のバスもなくなってしまった。-->最後まで残っていた清心女子高校路線も、[[2016年]](平成28年)4月1日に両備バスに移管された。これに伴い、現在では一般路線用のJRバスは、岡山県内には一台も存在していない。
 
==== 庄地区内専用路線 ====
前記の旧・国道2号沿い路線以外には、かつて合併時より[[倉敷市交通局|倉敷市営バス]]が新たに'''庄地区内専用路線'''となる新規路線を開設していた。この経緯は、都窪郡時代から旧・庄村地区が東側で隣接して、[[学区]]や[[行政事業]]は独立していたものの、[[吉備町]]地区と同じ電話局番や、[[吉備郵便局]]のほか[[水道事業]]<ref group="注">当時は吉備水道局として、[[簡易水道]]ではなく[[浄水池]]を備えて独立した[[水道局]]が、現在の[[RSKバラ園]]東側の足守川土手下に施設されていた。</ref>なども共用されていた。さらに生活においては、吉備町に本社を置く[[し尿]]汲み取り<ref group="注">し尿汲み取り業者は、岡山市ながらも現在でも便宜上、'''倉敷市の指定業者としての認可料金'''で、下水道のない地区で重宝されている。<!--特に付き合いの古い住人宅では、余程の事がない限り連絡をしなくても、業者が[[生活スタイル]]をある程度は把握しているので、お任せ状態で汲み取ってくれる便利性も残っている。--></ref>や、ゴミ回収業者・タクシーなどの民間会社との繋がりも深かった。そんな状況下でも特に生活への影響が大きかった、電話番号の市内外局番と'''一部の下4桁の変更'''([[#放送・通信]]を参照)・水道事業の全面切り替えによる水質変化の懸念(いわゆる、水との相性)などを踏まえて、あえて倉敷市へ合併する大きな理由の一つに、地区北部の高齢化に伴う交通手段の確保を取り付けることも含まれていた。この結果、当時の倉敷市交通局による[[倉敷交通局|市バス]]運行が実現した。
 
ルートは、庄地区の最南端部('''栗坂地区''')内の、中庄駅に比較的近い西端集落となる「'''西栗坂バス停'''」から出発して、山陽本線の南側と山裾に沿って東西に栗坂地内を走る細い道(一部では普通車同士のすれ違いが厳しい)を使い、約800メートル先の東端集落となる「'''東栗坂バス停'''」角の[[T字路]]交差点で、北方向へほぼ一直線で約4knほど結び<ref group="注">この直線区間は[[岡山県道389号岡山倉敷吉備津松島線]]や、旧・[[岡山県道73号箕島高松線]]の各県道の一部区間になっている。</ref>、この間に山陽本線を横断→→旧・国道2号を横断(「'''備中庄バス停'''」)→→)→庄地区の中核となる上東地区の庄支所(「'''庄支所前バス停'''」)・小学校・庄農協脇を通り、[[山陽新幹線]]の高架をくぐり、最北端部('''矢部地区''')の矢部公民館(「'''矢部バス停'''」)までの区間(合計約4.8km)で、【'''栗坂⇔矢部'''】線として合併直後から市バス部門の廃止となる[[1989年]]([[平成]]元年/[[昭和]]64年)3月31日まで開設されていた。また、区間内には'''記載していないバス停'''複数個所存在していた。
 
便数は、1日十数往〜1往復<ref group="注">開設当初はあまりマイカーも普及していなかったほか、後のコンビニ戦争状態や医療飽和(特に歯科医院)となるような劇的な商業環境の変化もなく、南部の上東地区に集中する役場・農協・公民館・幼稚園(当時は、小中学生の利用は禁止されていた)などへ出向くほか、備中庄交差点で国鉄バスに乗り換えての通勤・通学や吉備町地区の地元スーパーへの買出し、さらには合併2年半後に開院した[[川崎医科大学附属病院]]への通院者などが多数利用していた。このために便数も多く、また当初から大型バスで運行していた。しかし、その後の世間情勢が大きく変わるとともに利用者数も年を追う毎に激減し、本数も末期には朝・昼・夕数本までに削減されていった。また、交通量が劇的に増え道路事情も悪くなり、バス車体はその後に中型バス、さらにはほぼ空車状態が続いていた為に、市営バス末期には十数人乗りの[[マイクロバス]]に切り替わっていた。</ref>の定期路線として復運行していた。
ルートは、庄地区の最南端部('''栗坂地区''')内の、中庄駅に比較的近い西端集落となる「'''西栗坂バス停'''」から出発して、山陽本線の南側と山裾に沿って東西に栗坂地内を走る細い道(一部では普通車同士のすれ違いが厳しい)を使い、約800メートル先の東端集落となる「'''東栗坂バス停'''」角の[[T字路]]交差点で、北方向へほぼ一直線で約4knほど結び<ref group="注">この直線区間は、[[岡山県道389号岡山倉敷線]]や、旧・[[岡山県道73号箕島高松線]]の各県道の一部区間になっている。</ref>、この間に山陽本線を横断→→旧・国道2号を横断(「'''備中庄バス停'''」)→→庄地区の中核となる上東地区の庄支所(「'''庄支所前バス停'''」)・小学校・庄農協脇を通り、[[山陽新幹線]]の高架をくぐり、最北端部('''矢部地区''')の矢部公民館(「'''矢部バス停'''」)までの区間(合計約4.8km)で、【'''栗坂⇔矢部'''】線として、合併直後から市バス部門の廃止となる、[[1989年]]([[平成]]元年/[[昭和]]64年)3月31日まで開設されていた。また、区間内には'''記載していないバス停'''も、複数個所存在していた。
 
便数は、1日十数往 ~ 1往復<ref group="注">開設当初はあまりマイカーも普及していなかったほか、後のコンビニ戦争状態や医療飽和(特に歯科医院)となるような劇的な商業環境の変化もなく、南部の上東地区に集中する役場・農協・公民館・幼稚園(当時は、小中学生の利用は禁止されていた)などへ出向くほか、備中庄交差点で国鉄バスに乗り換えての通勤・通学や、吉備町地区の地元スーパーへの買出し、さらには合併二年半後に開院した[[川崎医科大学附属病院]]への通院者などが多数利用していた。このために便数も多く、また当初から大型バスで運行していた。しかしその後の世間情勢が大きく変わるとともに、利用者数も年を追う毎に激減して本数も末期には朝・昼・夕数本までに削減されていった。また、交通量が劇的に増え、道路事情も悪くなりバス車体はその後に中型バス、さらにはほぼ空車状態が続いていた為に、市営バス末期には終に十数人乗りの[[マイクロバス]]に切り替わっていた。</ref>の定期路線として復運行していた。その後は、路線を引き継いだ下電バスが中型バス<ref group="注">下電バスはマイクロを持っていなかったために、やむを得ず中型バスで運行していた。特に'''栗坂地区'''内を東西に横断する「東栗坂バス停」「西栗坂バス停」間は一部で道が細くなり、道一本で途中での迂回路が全くない<!--ために、運転手の苦労は耐えなかった-->。</ref>で運行していたがほとんどの便が空車状態での運行だったために、[[2002年]]([[平成]]14年)3月31日付けで廃止された。<!--これにより、合併時の[[1971年]](昭和46年)から31年間もの長きに渡って、細々と継続されていた路線はある意味、人知れず自然的に終わりを告げる事となった。-->
 
なお、あくまで参考事項として、個人開設ながら外部サイトには、廃止間際当時の時刻表写真によると昼前後の時間帯にたった一往復(平日のみ)の記載がある。詳しくは[[#外部リンク]]を参照願う
 
=== タクシー ===