「大白森」の版間の差分

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その後、急坂のブナ林を登ると裏岩手縦走路との分岐点の鶴の湯分岐に出会う。途中の標高900m程度の場所にわき水が出る場所があるが、枯れることも多い。鶴の湯分岐をまっすぐに進むと、木道と小規模の高層湿原がある小白森山山頂に着く。小白森はアオモリトドマツやミネカエデなどの低木に囲まれている。さらに、ブナとアオモリトドマツの混合林の中の登山道を登ると、視界が広がり大白森山の木道に出る。山頂の高層湿原には、ワタスゲやニッコウキスゲ、キンコウカなどが咲く。周囲には[[秋田駒ヶ岳]]や[[岩手山]]、[[乳頭山]]、[[八幡平]]などの山々に囲まれ眺望も良い。
 
大白森は南八幡平縦走コースの途中にあり、大白森周辺は山菜が豊富で季節によっては沢山の登山者が山菜を採っている。南八幡平縦走コースは、藩政時代にも記録されているが、[[1961年]]に国体登山コースとして、秋田県田沢湖町生保内営林署によって整備されたものである。同時に大白森に大白森に収容人数20名の大白森山荘、曲崎山に岩谷山荘が建築された<ref>「田沢湖町史」p.879</ref>。山名の由来は定かではないが、藩政時代には「大城森」(おおしろもり)と呼ばれていた。また、小白森山は「小城森」(こしろもり)と呼ばれていた。
 
== 大白森の周囲 ==
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翌[[1866年]]の早春、喜左衛門マタギは[[乳頭山]]と[[秋田駒ヶ岳]]の中間にある笊森(1541m)へカモシカ狩りにでかけた。それは樹氷が見られる季節であった。喜左衛門は鞍部近くにたどり着くと、山頂にいる異形の人影を見つけた。喜左衛門が大声を出して脅すと、異形の者は驚いて、一瞬顔を向けた。それは死んだはずの銅屋長九郎だった。長九郎は見破られたと思ったのか、飛ぶように鞍部を走り南部側の雪渓を滑り落ちるようにしてモロビの林の中に姿を消した。喜左衛門の話は、村人を震撼させた。長九郎の亡霊だとか、南部の山役人の手下になり国境を偵察しているのではないかという説を唱えた。長九郎の妻は、山神様に祈りを捧げ、肝煎のちからにすがって山狩りを続けるように願い出た。六蔵は食料を持って捜索をしようと鶴の湯に行った。そこに喜左衛門が[[黒湯]]で人の足跡を発見したと飛び込んで来た。南部領から秘かに黒湯に湯治に来ている者がいるという。黒湯には湯守がいなかった。喜左衛門と六蔵は一緒に黒湯に登った。8日目の夕暮れ、六蔵が外の湯壺を覗くと、岩陰にけだもののようにうずくまっている者がいる。2人が連れだって湯壺に行くと、髭面で人相は変わっているが、長九郎のように見える。2人は喜びと驚きの中、湯小屋に長九郎を連れて行った。しかし、長九郎はなぜかぐったりとして炉端に崩れうなじを垂れてしまう。「南部の村役人もいない。もう安心して良いぞ」と言っても「俺は死んだと思ってくれ。俺を見たと言わないでくれ」と返す。訳を聞くと、一部始終を語り始めた。
 
2年前、長九郎は六蔵とはぐれたあと、小白森、大白森を越え南部領に迷い込んだ。疲労で昏睡状態に陥った後、気づくと杣小屋のようなところに横たわり、毛皮を着た髭面の目が光る男と、若い女が彼を介抱していた。二人とは言葉が通じず、小屋にはまれに山の人間達が立ち寄っては去って行く。二人は献身的に長九郎を介抱し、長九郎は次第に健康を快復していった。若い女は年頃で、長九郎は妻があることは秘めて、娘と恋に落ちていった。彼らは定住の地を持たず、熊野や飛騨、信濃などの山地を漂しているらしい。冬になると南の地方に移動する彼らは、長九郎の為に、一冬をその地方で過ごし、彼を介護し、若い女は長九郎の子を身ごもっていた。次の年、南の国に移動することを躊躇する長九郎だが、ある秋の日に山男の父が山役人に撃たれ血まみれになってしまう。傷ついた山男の父を介抱し、長九郎は父を黒湯の湯の華を採って来たり薬草を集めたりした。南の地に行く季節は三月、それまでに長九郎は黒湯に往復して湯の華を集め、そのために喜左衛門や六蔵に目撃された。
彼は語りながら涙をボロボロとこぼした。喜左衛門や六蔵は呆然として聞いていると、長九郎は突然身を起こし「長九郎は死んだものと伝えてくれ!俺は南に行く。嶺の上に雪が落ちたら、長九郎のことを思い出してくれ」と言って湯小屋から飛び出した。「待ってくれ、長九郎」と叫んで追いかけても、長九郎の姿はブナの林の中に見えなくなって行った<ref>『山の湖の物語 田沢湖・八幡平風土記』、千葉治平、[[1978年]]、p.180-201</ref><ref>『乳頭山麓物語』、千葉治平(文)、佐藤隆二(絵)、秋田文化出版社、[[1987年]]</ref>。