「足利義栄」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
36行目:
このように、義栄は日の目を浴びずに生きており、このまま阿波で逼塞して、ひっそりと死去すると考えられていた{{Sfn|榎原|清水|2017|p=377}}。
 
とはいえ、義維・義栄父子の側近である[[畠山維広]](安枕斎守肱)は、阿波三好氏の当主・[[三好実休]]とともに[[堺]]の豪商の[[茶会]]にたびたび出席しており、阿波三好氏との友好関係が構築されていた{{Sfn|榎原|清水|2017|p=382}}。実休はかつて、阿波守護・[[細川持隆]]を殺害していたため、守護家を上回る権威を持つ平島公方に接近し、その関係を重視したと考えられる{{Sfn|榎原|清水|2017|p=382}}。そして、三好本宗家が義輝の排除に動く一方、阿波三好氏は平島公方と関係を結び、ひいてはその擁立に動くことになった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=382}}。
 
===永禄の変と三好氏の思惑===
44行目:
この事件に関して、[[公家]]の[[山科言継]]は阿波にいる義栄を将軍に擁立するために起こしものではないか、と自身の日記に記している{{Sfn|榎原|清水|2017|p=378}}{{Sfn|天野|2014|p=249}}。宣教師[[ルイス・フロイス]]も同様に、義栄を将軍にするために起こしたと見ていた{{Sfn|榎原|清水|2017|p=378}}。また、宣教師[[ガスパル・ヴィレラ]]は8月2日付けの書状で、義継と久通が[[キリシタン]]を追放しているため、宣教師たちが阿波に赴き、上洛を目論んでいる義栄や阿波三好氏の宿老・[[篠原長房]]に対し、キリシタンが京都に復帰できるように許可を得ようとしている、と伝えている{{Sfn|榎原|清水|2017|p=378}}。
 
当時は有力な戦国大名たちが大義名分のため、[[足利将軍家]]を擁立して戦うのが常であった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=378}}。そのため、公家や宣教師らが義輝の殺害によって、義栄を新たな将軍に擁立しようとしていると考えても不思議ではなかった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=378}}。
 
だが、[[近衛家]]に近い[[梅仙軒霊超]]は[[伊予国|伊予]]の[[河野通宣 (左京大夫) |河野通宣]]に対して、5月26日付の書状で義輝の死を伝えており、霊超自身は義栄を擁立するつもりで疑っているものの、世間ではとくにそういった風聞がないと記している{{Sfn|榎原|清水|2017|p=378}}。実際、義栄が畿内に渡海するのは事件から1年4ヶ月後のことであり、三好方は義栄と事前に相談や準備をしていたとは考えにくく、義栄の擁立は当初想定されていなかった可能性が高い{{Sfn|榎原|清水|2017|p=379}}{{Sfn|天野|2014|pp=249-250}}。また、義栄の父・義維はかつて畿内では将軍格として扱われたが、地方では相手にされず、同じく影響力を持たない義栄をわざわざ擁立する意味も見出しにくく、義栄が義輝に代わりうる存在だったのかは疑問が残る{{Sfn|榎原|清水|2017|p=379}}{{Sfn|天野|2014|p=250}}。
 
三好氏の当主・三好義継は義輝を討った直後、自身の名を「義重」から「義継」に改名しているが、これには大きな政治的な意味があったとされる{{Sfn|榎原|清水|2017|p=379}}{{Sfn|天野|2014|p=251}}。れは、三好氏が「義」を通字とする将軍家を「継」ぐという意思表明であった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=379}}。義継は足利将軍家の擁立を放棄し、自らが将軍になることを意識したか、あるいは足利将軍家に依存しない政治体制の構築を目指したとされる{{Sfn|榎原|清水|2017|p=379}}{{Sfn|天野|2014|p=251}}。
 
とはいえ、義継ら三好氏は足利将軍家との縁を断ち切ることはできなかった。そして、この事件により、阿波で逼塞していた義栄の人生は大きく変わることになった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=377}}。
72行目:
9月23日、義栄は父の義維、弟の[[足利義助|義助]]とともに渡海し、摂津の[[越水城]]に入城した{{Sfn|若松|2013|p=55}}{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。他方、29日には義昭が朝倉義景を頼り、[[越前国|越前]]に向かった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。このとき、義維は病身であったため、義栄が将軍就任に向けた活動を行った{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。
 
10月4日、義栄は将軍に就任していないにもかかわらず、伊予の河野通宣に対し、将軍が発給する[[御内書]]を下した{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。その内容は、京都を平定したので上洛すると伝え、忠誠を求めるものであった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。また、通宣の家臣・[[村上通康]]に対しても、同様の御内書が発給されている{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。この発給に関しては、篠原長房が阿波や[[讃岐国|讃岐]]から大軍を率いて機内に出兵していたため、その背後の安全を確保する意味合いがあった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。
 
10月3日、義栄は朝廷に対する工作として、太刀や馬を献上した{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。これに対し、11日に朝廷は[[武家伝奏]]の[[勧修寺尹豊]]を義栄のもとに派遣した{{Sfn|榎原|清水|2017|p=384}}。朝廷は義栄が畿内を制圧したとして、その存在を認めざるを得なくなっていた{{Sfn|榎原|清水|2017|p=384}}。
128行目:
義昭の上洛が本格化するなか、8月17日に三好長逸ら三好三人衆は近江に赴き、[[六角義賢]]と面会して「天下の儀」に関して話し合い、味方に引き入れた{{Sfn|榎原|清水|2017|p=387}}{{Sfn|天野|2016|p=89}}。だが、義昭を擁する織田信長や三好義継、畠山秋高らの陣営に比べると、明らかに劣勢であった{{Sfn|榎原|清水|2017|pp=387-388}}。
 
9月2日、三好康長と[[三好盛政]]が松永久秀の牽制のため、河内から大和に入った{{Sfn|天野|2016|p=89}}。そして、9月4日には筒井順慶とともに東大寺に攻め込んだ{{Sfn|天野|2016|p=89}}。
 
9月7日、[[織田信長]]が足利義昭を奉じて、美濃岐阜を出発し、上洛戦を開始した{{Sfn|榎原|清水|2017|p=388}}。
156行目:
義栄の幕府では、三好三人衆のひとり・[[三好長逸]]が[[御供衆]]に抜擢された。また、義栄の畿内での拠点である富田の普門寺は、もうひとりの三好三人衆・[[三好宗渭]]のかつての主君だった[[細川晴元]]を隠居させるために整備されたもので、晴元の嫡子・[[細川昭元]]は義栄の幕府で[[管領]]として遇された。
 
義栄は伊勢氏や大舘氏など武家故実をもって仕える層を取り込むことには成功したものの、[[諏方氏]][[飯尾氏]][[松田氏]]など相論の裁許や行政事務をもって仕える層の取り込みは一部しか成功せず、将軍就任後の幕府機構の再建に不安を残す形となった。それでも、父・義維の時とは違って現職の将軍が不在であり、対抗者である義昭の立場が弱かったことが義栄の将軍宣下に有利に働いたとみられている{{Sfn|木下|2014|p=207-246}}。
 
義栄の幕府は従来の将軍体制とは変わりなく、天文末年に三好長慶によって廃絶された管領・管領代(奉行人)を復活させた{{Sfn|若松|2013|p=65}}。管領には細川昭元、細川晴元の管領代であった[[飯尾為清]]、及びその息子と思われる[[飯尾為房|為房]]を管領代に任用した{{Sfn|若松|2013|p=65}}。三好三人衆筆頭の三好長逸、故実に通じた大舘輝光、政所執事の伊勢一族、義維と苦楽を共にしてきた畠山維広、及びその息子の[[畠山伊豆守|伊豆守]]・[[畠山孫六郎|孫六郎]]兄弟、荒川氏らを中核とし、義栄の幕府は構成されていた{{Sfn|榎原|清水|2017|p=386}}。
 
義栄の幕府の組織体制は、伝統的権威を指向しつつ、従来の権威を踏襲したに過ぎなかった{{Sfn|若松|2013|p=65}}。また、一部の奉行人や御供衆が足利義昭に近侍していた事実から、組織自体が完全に一元化されていなかった{{Sfn|若松|2013|p=65}}。そのようななかで、義栄の幕府を強力に推進したのは、三好三人衆や篠原長房など阿波三好氏の重臣層であった{{Sfn|若松|2013|p=65}}。それゆえ、義栄の幕府は三好三人衆政権とも評されているものの、言い換えれば阿波国人衆によって初めて形成された中央政権でもあった{{Sfn|若松|2013|p=65}}。
165行目:
従来、義栄の事跡としては、朝廷や[[春日大社]]に対し、太刀や馬を献上したという話ぐらいしか知られておらず、三好三人衆と松永久秀による完全な傀儡将軍と考えられてきた。
 
だが、三人衆と久秀の対立後は三人衆側に擁されながらも、永禄10年(1567([[1567]])5月には[[石清水八幡宮]]の人事に介入して、朝廷と対立したりした。また、同月に発生した京都の住民と[[大徳寺]]の対立では、義栄が派遣した幕府奉行人である松田藤弘が朝廷から派遣された[[勧修寺晴右]]とともに仲裁にあたっている。三人衆と久秀の対立は、結果的には彼らからの制約を受けなくなった義栄の発言力を高めたと考えられる。
 
また、義栄が伊予の河野通宣に対して下した御内書は、畿内に進出する篠原長房の背後の安全確保のためのものであった{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。このことから、義栄は決して「お飾り」ではなく、諸大名の動員や、自らを将軍に推す長房が安心して動けるように環境を整えようしたりするなど、自身の戦略も保持していたこともうかがえる{{Sfn|榎原|清水|2017|p=383}}。