「五井戦争」の版間の差分

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同日夜に[[上総国]][[八幡 (市原市)|八幡]]([[市原市]])辺りで[[薩摩藩]]兵二人が幕府軍によって殺害され、これを機に翌7日、幕府軍と新政府軍は[[養老川]]で対峙し五井戦争が勃発した。幕府軍は養老川の渡り船場の保持を村方に命じた。
 
新政府軍は、三方面に分かれて右翼隊が岡山藩兵と大村藩兵半隊が充当され、中央隊は薩摩藩兵、長州藩兵、大村藩兵反対が担当。そして左翼隊は津藩兵が東部台地上を本堂と並行する形で、養老川上流の権現堂へと向かった。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p260}}</ref> 中央隊はまず村田川沿いに展開する敵を攻撃するために浜野の東方周辺に展開して前進し、右翼隊は本道から西側の海岸を散開して前進し敵に接近した。ここでは撤兵隊は頑強な抗戦をせず、徐々に養老川の線まで後退した。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p261}}</ref>諸藩兵はこれを追撃して養老川右岸に進撃したが、幕府軍はここでやや強力な抵抗を展開した。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p261}}</ref> ここで右翼隊の大村藩兵が渡河を決行して養老川左岸に達し、幕府軍を側面より攻撃した。この側面攻撃によって幕府軍は崩れて退却を開始した。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p261}}</ref>中央隊はこの機を逃さず、急迫して養老川の渡河を強行し、幕府軍の第二線陣地と想定された姉ヶ崎から真東に渡って伸びている高地の攻撃に移った。
 
正午を過ぎた当たりに新政府軍は姉ヶ崎東方の高地の攻撃を行った。薩摩藩兵2隊と一番砲隊が本道正面の旧幕府軍に向かい、薩摩藩兵1隊と長州藩兵1隊及び大村藩兵半隊は右翼隊を構成して、本道から西の地区より姉ヶ崎市街方面へと前進した。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p261~p262}}</ref> また、新政府軍が東方高地の攻撃を開始した段階で佐土原藩兵が遅れて戦場に到着し、中央隊の左方向へと前進する中で意図せず岡山藩兵と合流して左翼隊を形成した。左翼隊は台地中央へと向かって前進したが、姉ヶ崎は義軍府の根拠地であったため攻め落とすことは容易ではなかった。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p261~p262}}</ref> 義軍府側の守備はこのように堅固であったものの、大砲はわずかに2門あったのみで<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p261~p262}}</ref>砲兵の不足が深刻であった。一方の新政府軍は薩摩藩だけで砲5門と臼砲を投入しており、佐土原藩と岡山藩も砲を有していた。さらに戦場は遮るものがない開けた地であったため、諸藩兵は小銃の射程範囲外から砲撃を展開したので、精鋭とされていた撤兵隊も無力であった。従って砲弾が命中する度に旧幕府軍は激しく動揺し、射撃が弱まったため新政府軍は開闊地であるにも関わらず、容易に台地に接近した。<ref>{{Cite book|和書|title=戊辰役戦史(上)|year=1968|publisher=時事通信社|pages=p262}}</ref>