「フィレンツェ公会議」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加
用語整理
1行目:
{{出典の明記|date=2012年12月}}
'''フィレンツェ公会議'''(フィレンツェこうかいぎ)は[[1430年代]]に[[イタリア]]で(初めは[[フェラーラ]]で[[1438年]]から、[[フィレンツェ]]で[[1439年]]から)開催された[[キリスト教]]([[カトリック]])の[[公会議]]。[[バーゼル公会議]]([[1431年]] - )が教皇派と公会議派に分裂し、教皇派らはイタリアに移転し、公会議派は[[バーゼル]]([[スイス]])に留まった。イタリアでは主に[[正教会|東方正教会]]と[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の再合同について議論された。
 
バーゼルでの会期をあわせて'''バーゼル公会議'''あるいは'''バーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議'''と呼んだり、公会議の後半会期にあたるフェラーラからフィレンツェ、ローマで行われた会期を'''フェラーラ・フィレンツェ公会議'''などと呼ぶこともある。
 
*カトリックの公会議史上はバーゼルでの会期をあわせて'''第17回公会議'''(バーゼル公会議1431 - 1445年)とされる。この会議を公式のものと認める東方の教会の数え方では第8回公会議。ただし東方ではこれを公会議と認めない教会も多い(現在の[[コンスタンティノープル総主教庁|コンスタンティノープルの正教会]][[ロシア正教会]]など)。
 
== 経緯 ==
10行目:
*1431年にスイスのバーゼルで公会議が始まった。その経過については[[バーゼル公会議]]参照のこと。
 
[[オスマン帝国]]の圧力を受けて、[[西ヨーロッパ]]諸国からの支援を求めていた[[ビザンツ帝国]][[皇帝]][[ヨハネス8世パレオロゴス]]は東西融和の一環として東西教会の分裂の収拾を提案した。[[西方教会]]でもこれを歓迎する機運が高まっていたが、この話し合いを行うための場所をめぐって、バーゼルの公会議参加者と[[教皇]]側の間の議論は紛糾した。
 
[[1437年]][[9月18日]]、教皇側が[[ギリシア]]側の便宜を図ってフェラーラへの公会議の移転を発表するとバーゼルの公会議参加者たちは分裂、[[ニコラウス・クザーヌス]]など教皇に従ってフェラーラに移動するものとバーゼルに残留するものとに分かれた。[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]は教皇[[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]と交渉して、バーゼルの代表者にバーゼル公会議を途中から欠席させた。
 
バーゼルに残った急進的な公会議主義者たちは教皇権を超える公会議の権威を主張して、これに反対した教皇の廃位を一方的に宣言。[[1439年]][[6月25日]]、独自にサヴォイア公爵アマデウスを教皇に立てた。これが[[フェリクス5世_(対立教皇)|フェリクス5世]]、最後の[[対立教皇]]である(この行為は公会議主義の歴史における大失点となった)。
 
===フェラーラおよびフィレンツェでの会期===
フェラーラ公会議は1438年[[1月8日]]に召集され、10日から開催された。[[3月18日]]、[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]が[[フランクフルト・アム・マイン]][[ローマ王]]となった。ビザンツ帝国の皇帝[[ヨハネス8世パレオロゴス]]や[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]]ヨセフスなどの高位聖職者たちは1438年4月頭にフェラーラへ到着した。東西教会による合同会議は[[1438年]][[4月9日]]に開会した。教皇[[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]のもと、ビザンツ皇帝、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]]、[[エフェソス]]、[[ニカイア]]、[[キエフ]]、[[アレクサンドリア]]、[[アンティオキア]]、[[エルサレム]]といった[[東方教会]]の代表と西方教会の[[司教]]たちが一堂に会して討議を行った。しかし、フェラーラでは財政的な困難や[[疫病]]の流行という事態に直面したため、教皇庁の[[金融]]を担当していた[[メディチ家]]([[コジモ・デ・メディチ]])の申し出を受けて、1439年に公会議はフィレンツェに移転することになった。こうしてビザンツ皇帝や東方教会の聖職者たちがフィレンツェを訪れた。この公会議開催はメディチ家にとって、フィレンツェや教皇庁での地位が強化される盛大なイベントというメリットもあったのである。
 
フィレンツェでの討議は[[サンタ・マリア・ノヴェッラ教会|サンタ・マリア・ノヴェッレ聖堂]]で行われた。討議では東西教会の間での意見の不一致点を扱い、「[[フィリオクェ問題]]」の扱いをめぐって難航はしたものの、一応の妥協案がつくられ、1439年には合同教令「{{仮リンク|レテントゥル・チェリ|en|Bull of Union with the Greeks}}」 (Laetentur CoeliCaeli) を採択するまでに至った。これによって東西教会の全面的な再統一が大きく進むと見られたが、ビザンツ帝国内では、東方の全教会の総意を得たうえの決議ではなく、政治的な思惑からのものであったため、聖職者や国民らから大きな反発の声が上がり、合同の実現は果たせなかった。[[モスクワ]]も合同を受け入れず、合同派の[[府主教]]{{仮リンク|キエフのイシドール|ru|Исидор (митрополит Киевский)|en|Isidore of Kiev}}は追放された。
 
また、[[1453年]]に[[オスマン帝国軍]]が[[コンスタンティノポリス]]を陥落させた([[コンスタンティノープルの陥落]])ため、以降東西教会の合同へ向けた協議は行われなくなった。しかし、この公会議によって[[アルメニア教会]]の一部がローマ・カトリック教会と合同し、[[{{仮リンク|アルメニア典礼カトリック教会]]|hy|Հայ կաթողիկե եկեղեցի|en|Armenian Catholic Church}}が成立するという一応の成果がカトリック教会にもたらされた。
 
===ローマでの会期と公会議の最後===
29行目:
 
== ルネサンスへの刺激 ==
この公会議では会期の前後にイタリアにギリシアから[[知識人]]が亡命したり、[[ギリシア語]]文献が伝えられ、[[ルネサンス]]思想に大きな影響を与えることになった。フィレンツェの[[人文主義者]]は当時[[プラトン]][[哲学]]など、[[古代ギリシア]]の文献に注目していたが、ほとんどギリシア語を読めなかった。一方、ビザンツ帝国はギリシア語が公用語で、当時「[[パレオロゴス朝ルネサンス]]」と呼ばれる[[古代ギリシア語]]研究が盛んな時期でもあった。公会議にはビザンツ帝国から多くの知識人が参加したため、フィレンツェでは彼らを歓迎し、多くの知識を学んだ。ビザンツ帝国の知識人として、[[ヨハンネス・ベッサリオン]]、[[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン]]らの名前がよく知られている。
 
*'''プレトン'''(1360年? - 1452年) ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン'''(プリソンとも、1360年? - 1452年)。フィレンツェ公会議の際に行ったプラトン講義は、フィレンツェのプラトン熱を高め、のちにコジモ・デ・メディチが[[プラトン・アカデミー]]を始めるきっかけになった。プレトンという名自体、プラトンにちなんで改名したものである(姓のゲミストスとは同義語である)。帰国後は[[ミストラ]]にて教育・研究活動を行い同地にて没。[[遺骨]]はイタリアに運ばれて再び[[埋葬]]された。
 
*'''ベッサリオン'''(1399年? - 1472年) ヨハンネス・ベッサリオン'''(ヨアニス・ヴィサリオンとも、1403年 - 1472年)。公会議後もフィレンツェに残り、古典文献を収集しフィレンツェにもたらした。のちにカトリックへ改宗し、[[枢機卿]]になった他、[[1451年]]以来空席となっていた[[総大司教|コンスタンティノープル総大司教]]に任命された。ただし、これは名目的なものである。
 
== 関連項目 ==
*[[ニコラウス・クザーヌス]]
*[[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]]
*[[東方典礼カトリック教会]]
{{Commonscat}}
 
{{公会議}}
 
50行目:
[[Category:フィレンツェ共和国]]
[[Category:コジモ・デ・メディチ]]
[[Category:15世紀のヨーロッパ]]
 
[[be-x-old:Фларэнтыйская унія]]
[[en:Council of Basel]]
[[fr:Concile de Bâle]]
[[la:Concilium Basilense]]