「沖縄の米軍基地」の版間の差分

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== 民間人収容所と住民 ==
1945年、沖縄戦で4分の一の住民が命を奪われ、生き残った住民は米軍の[[沖縄の民間人収容所|民間人収容所]]に送られた。米軍は沖縄中部で基地建設を進めていたため、中南部の大半の住民は北部の収容所に送られた。収容者はピーク時で33万人を超え、飢餓やマラリヤなどで22か所の収容所で最低でも6423人が死亡している<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/hold/2015/Postwar70th/toinaosu/list/pdf/p160619.pdf 沖縄戦22収容所 住民6400人死亡 幼児と高齢者 際立つ犠牲] 東京新聞</ref>。特に北部の収容所運営の状態は極めて劣悪なものであった<ref>ヘンリー・スタンリー・ベネット「沖縄人は何を失い、何を得たか」上原 正稔 (著)『沖縄戦トップシークレット』沖縄タイムス社、1995年</ref><ref>{{Cite web|title=【Archive 1-13】大浦湾一帯「沖縄戦時収容所共同墓地 マラリアと飢餓と一面沖縄墓標戦跡|url=https://battleokinawan-of-okinawapearls.hatenablogogb.comgo.jp/entry/2019/08senseki/17okinawasenjinokyodobochi/152240|website=BattleOKINAWAN of OkinawaPEARLS|沖縄総合観光ポータルサイト|date=2021-06-18|accessdate=20202021-0208-1430|language=ja|last=|publisher=}}</ref>{{信頼性要検証|date=2021年3月}}
 
[[1954年]]から[[1964年]]にかけ、在日米軍軍政下の沖縄で住民の[[ボリビア]]への移住が進められた。生活基盤を奪われた沖縄住民の約3,218名がこの期間にボリビアへ移住し、今日までに生存できた被強制移住者達は、その子孫を含めても806名に過ぎないことが判明している。