「アレクサンドリアの大灯台」の版間の差分

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ファロス島は、アドリア海にも同名の島(現在の[[フヴァル島]])があるが、ここで言及されるのは、アレクサンドリア港の一方の端に人工の埋め立てにより出来上がった半島の突端にあった小さな島である。[[世界の七不思議]]のひとつ。ただし、[[ビザンチウムのフィロン]]の選出した七不思議には含まれていない。14世紀の二度の地震によって全壊したが、七不思議の中では[[ギザの大ピラミッド]]、[[マウソロス霊廟]]に次ぐ長命な建造物だった。
 
== 建造に至る経緯歴史 ==
=== 顛末伝説 ===
伝説によれば、戦時には鏡の反射光を敵の船めがけて照射して、船が海岸に到達する前に燃やすことができたという。しかしながら、灯台が存在した当時の光学技術、光反射技術の水準では、船を燃やすのはまず不可能である。一方、灯台の光は約56キロメートル(約35マイル)離れた海岸からも見ることができたという伝説もあり、こちらはおそらく可能だろうと考えられている。
 
=== 建造に至る経緯 ===
[[ファイル:Pharos_of_Alexandria.jpg|200px|left|thumb|]]
[[紀元前332年]]、[[アレクサンドロス3世]]によってナイル河口に[[アレクサンドリア]]が建造された。アレクサンドロスの死後、エジプトは彼の部下である[[プトレマイオス1世]]の統治下に置かれ、ここに[[プトレマイオス朝]]が開かれた。プトレマイオス朝はアレクサンドリアを首都としたが、この都市の周辺は平坦な土地が広がっており、沿岸航行や入港の際に陸標となるものが何もなかった。そのためプトレマイオス1世は陸標となる[[灯台]]の建造を決定した。
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建造の指揮は[[クニドスのソストラトス]]に任せられた。建造地にはアレクサンドリア湾岸の[[ファロス島]]が選ばれた。島とアレクサンドリア港との間は人工的な通路で結ばれた。[[紀元前305年]]から工事を開始し、完成したのは[[プトレマイオス2世]]の代だった。
 
=== 構造顛末 ===
[[ファイル:Roman coin alexandria lighthouseQaitbeyCitadel.gifjpg|thumb|right|ロ[[カマ時代のコト・ベイの要塞]]]]
灯台の全高は約134メートル(約440フィート)。[[ギザの大ピラミッド]](147メートル)を除くと、建造当時は地球上で最も高い人工物の1つだった。建材には[[大理石]]が用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていった。形状の異なる3つのセクションで構成されており、方形の基層部の中央に塔があり、下層部は四角柱、中層部はひとまわり細い八角柱、上層部はさらに細い円柱形だった。頂点には[[鏡]]が置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていた。その様子はアレクサンドリアの鋳造所で作られたローマ時代のコインに見ることができる。灯台の四つ角には、角笛を吹く海神[[トリートーン|トリトン]]の彫像が置かれていた。また、ローマ時代には頂点にも彫像が置かれていた。
 
内部には、螺旋状の通路が設けられ、そこをロバを使い薪を運んでいたと考えられている。
 
== 顛末 ==
[[796年]]の地震で大灯台は半壊し、その後の[[1303年]]と[[1323年]]の地震で完全に崩壊した。14世紀の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は、崩壊のために中に入ることもできないと記している。1480年頃、跡地に灯台の残骸を利用して[[カーイト・ベイの要塞]]が建造された。
 
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アレクサンドリアの大灯台は、七不思議の中では現在残る[[ギザの大ピラミッド]]に次いで存続した建造物である。
 
== 伝説と影響構造 ==
[[ファイル:LighthouseRoman ofcoin Alexandriaalexandria in Changsha Chinalighthouse.jpggif|thumb|中国のテ200px|ローマパーク、[[長沙世界之窓]]に縮尺再現された大灯台時代のコイン]]
灯台の全高は約134メートル(約440フィート)。[[ギザの大ピラミッド]](147メートル)を除くと、建造当時は地球上で最も高い人工物の1つだった。建材には[[大理石]]が用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていった。形状の異なる3つのセクションで構成されており、方形の基層部の中央に塔があり、下層部は四角柱、中層部はひとまわり細い八角柱、上層部はさらに細い円柱形だった。頂点には[[鏡]]が置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていた。その様子はアレクサンドリアの鋳造所で作られたローマ時代のコインに見ることができる。灯台の四つ角には、角笛を吹く海神[[トリートーン|トリトン]]の彫像が置かれていた。また、ローマ時代には頂点にも彫像が置かれていた。
伝説によれば、戦時には鏡の反射光を敵の船めがけて照射して、船が海岸に到達する前に燃やすことができたという。しかしながら、灯台が存在した当時の光学技術、光反射技術の水準では、船を燃やすのはまず不可能である。一方、灯台の光は約56キロメートル(約35マイル)離れた海岸からも見ることができたという伝説もあり、こちらはおそらく可能だろうと考えられている。
 
内部には、螺旋状の通路が設けられ、そこをロバを使い薪を運んでいたと考えられている。
この大灯台のために、{{lang-grc-short|''Φάρος''}}({{lang-el-short|''Pharos''}}、ファロス) は[[ロマンス諸語]]において「灯台」を表す語の語源となった。{{lang-fr|''phare''}}、{{lang-it|''faro''}}、{{lang-pt|''farol''}}、{{lang-es|''faro''}}などがそれにあたる。
 
=== 諸文献での記述 ===
また、イスラム教の[[モスク]]に付随する[[ミナレット]]の形状は、特に[[北アフリカ]]の[[マグリブ]]諸国のものは方形プランの高い台座型楼塔に頂塔をさらに乗せる形式が一般であるが、大灯台と同じ三層構造に酷似しており影響が指摘されている。
なお、[[アル・マスウーディー]]の『[[黄金の牧場と宝石の鉱山]]』(''Murūj al-Dhahab wa Ma'ādin al-Jawāhir'' 「ムルージュ・アッ=ザハブ・ワ・マアーディン・アル=ジャワーヒル」 [[947年]]頃)の伝説では塔を半分とその鏡を破壊し闘争したのは[[東ローマ帝国]]の宣教師とされている<ref>『アレキサンダー大王99の謎』18いつどのようにアレクサンドリアの灯台物語は中国に伝わったか54-55ページ[[1978年]](昭和53年)</ref>。大灯台が一部健在であった中世では、通例、[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]の地誌や驚異譚などにおいてアレクサンドリアが紹介される場合は必ず大灯台についても言及されていた。[[1183年]]に[[スペイン]]の[[ムワッヒド朝]]下の[[グラナダ]]から[[地中海]]を横断して[[アレクサンドリア]]で下船した[[イブン・ジュバイル]]は大灯台についても言及しており、それによると大灯台は海上から70ミール(約140キロメートル)からでも確認出来たといい、基礎の四辺の1辺は50バーウ(約100メートル)で、150カーマ(人の背丈150人分の高さ)以上だったと述べ、その巨大さに圧倒されたと旅行記で感歎している<ref>イブン・ジュバイル『イブン・ジュバイルの旅行記』(講談社学術文庫 1955)藤本勝次・池田修 監訳、2009年7月、p.32-33</ref>。また、13世紀半ばの著述家[[ザカリーヤー・カズウィーニー|ザカリヤー・カズヴィーニー]]も著書『被造物の驚異([[:en:ʿAjā'ib al-makhlūqāt wa gharā'ib al-mawjūdāt|en]])』(''ʿAjā'ib al-makhlūqāt '')や『諸国の事跡』(''Āthār al-Bilād'')などでアレクサンドリアの大灯台が三重構造であったことを図示している。
 
なお、[[アル・マスウーディー]]の『[[黄金の牧場と宝石の鉱山]]』(''Murūj al-Dhahab wa Ma'ādin al-Jawāhir'' 「ムルージュ・アッ=ザハブ・ワ・マアーディン・アル=ジャワーヒル」 [[947年]]頃)の伝説では塔を半分とその鏡を破壊し闘争したのは[[東ローマ帝国]]の宣教師とされている<ref>『アレキサンダー大王99の謎』18いつどのようにアレクサンドリアの灯台物語は中国に伝わったか54-55ページ[[1978年]](昭和53年)</ref>。大灯台が一部健在であった中世では、通例、[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]の地誌や驚異譚などにおいてアレクサンドリアが紹介される場合は必ず大灯台についても言及されていた。[[1183年]]に[[スペイン]]の[[ムワッヒド朝]]下の[[グラナダ]]から[[地中海]]を横断して[[アレクサンドリア]]で下船した[[イブン・ジュバイル]]は大灯台についても言及しており、それによると大灯台は海上から70ミール(約140キロメートル)からでも確認出来たといい、基礎の四辺の1辺は50バーウ(約100メートル)で、150カーマ(人の背丈150人分の高さ)以上だったと述べ、その巨大さに圧倒されたと旅行記で感歎している<ref>イブン・ジュバイル『イブン・ジュバイルの旅行記』(講談社学術文庫 1955)藤本勝次・池田修 監訳、2009年7月、p.32-33</ref>。また、13世紀半ばの著述家[[ザカリーヤー・カズウィーニー|ザカリヤー・カズヴィーニー]]も著書『被造物の驚異([[:en:ʿAjā'ib al-makhlūqāt wa gharā'ib al-mawjūdāt|en]])』(''ʿAjā'ib al-makhlūqāt '')や『諸国の事跡』(''Āthār al-Bilād'')などでアレクサンドリアの大灯台が三重構造であったことを図示している。
 
また中国まで伝わり、[[南宋]]の[[泉州]]提挙市舶司であった[[趙汝适]]による『[[諸蕃志]]』<ref>[http://toyoshi.lit.nagoya-u.ac.jp/maruha/kanseki/zhufanzhi2.html 諸蕃志卷上]</ref>(1225年)に次のとおり記述される。
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彼に疑いを抱かなかったが、ある日突然に隙をみて鏡を盗み出し、海中にほうり込んで逃げ去った。<br /></small>|『諸蕃志』卷上<ref>趙汝适 撰『諸蕃志』(関西大学東西学術研究所訳注シリーズ 5  藤善真澄 訳注)関西大学出版部、1991年3月、195-196頁</ref><ref>以上は『アレキサンダー大王99の謎』15図説-世界にみるアレクサンダーの痕跡49ページ古刊本写真[[1978年]](昭和53年)から翻刻</ref>}}
その内容は、勿斯里(ミスル エジプトのこと)の遏根陀國(アレキサンドリア)の徂葛尼([[イスカンダル|ズルカルナイン]](双角王))による大塔とその鏡が外国人によって捨てられたというものである。
 
== 影響 ==
[[ファイル:Lighthouse of Alexandria in Changsha China.jpg|thumb|中国のテーマパーク、[[長沙世界之窓]]に縮尺再現された大灯台]]
この大灯台のために、{{lang-grc-short|''Φάρος''}}({{lang-el-short|''Pharos''}}、ファロス) は[[ロマンス諸語]]において「灯台」を表す語の語源となった。{{lang-fr|''phare''}}、{{lang-it|''faro''}}、{{lang-pt|''farol''}}、{{lang-es|''faro''}}などがそれにあたる。
 
また、イスラム教の[[モスク]]に付随する[[ミナレット]]の形状は、特に[[北アフリカ]]の[[マグリブ]]諸国のものは方形プランの高い台座型楼塔に頂塔をさらに乗せる形式が一般であるが、大灯台と同じ三層構造に酷似しており影響が指摘されている。
 
なお、[[アル・マスウーディー]]の『[[黄金の牧場と宝石の鉱山]]』(''Murūj al-Dhahab wa Ma'ādin al-Jawāhir'' 「ムルージュ・アッ=ザハブ・ワ・マアーディン・アル=ジャワーヒル」 [[947年]]頃)の伝説では塔を半分とその鏡を破壊し闘争したのは[[東ローマ帝国]]の宣教師とされている<ref>『アレキサンダー大王99の謎』18いつどのようにアレクサンドリアの灯台物語は中国に伝わったか54-55ページ[[1978年]](昭和53年)</ref>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
{{Commons|Pharos of Alexandria}}
*イブン・バットゥータ 『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』全8巻 [[家島彦一]]訳、[[平凡社]]〈[[平凡社東洋文庫]]〉、1996-2002年。
*井本英一ほか『アレクサンダ-大王99の謎 - 日本神話の英雄のモデルか』サンポウジャーナル〈サンポウ・ブックス137〉、1978年。
 
== 関連項目 ==
{{Commons|Pharos of Alexandria}}
* [[ヘラクレスの塔]]
 
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