「鵜渡根島」の版間の差分

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島の名は、島内に祀られている鵜渡根后明神{{efn|[[事代主神]]の一族神である<ref name = "shimadas" /><ref name = "kotobank" />。}}{{efn|島内に白い[[鳥居]]と[[祠]]がある<ref name = "maboroshi13" />。}}に由来する<ref name = "shimadas" /><ref name = "kotobank" /><ref name="taikei1266"/>。天保郷帳には「うとね」と記載されている<ref name="taikei1266"/>。
 
[[明治|明治時代]]には新島から移住した島民1名から2名が[[養蚕]]を営んで生活していたこともある<ref name = "shimadas" /><ref name="taikei1266"/>。移住者は、島の頂上部に存在する僅かな平坦地に小屋を建て、雨水に頼って生活していたとされる<ref name = "maboroshi13" />。伊豆諸島の中で、かつて有人島でありながら無人島化してしまった記録が残る3島(鵜渡根島、[[鳥島 (八丈支庁)|鳥島]]、[[八丈小島]])のうちの1島であり、これらの中で最も小さく文献も乏しい島である<ref name = "maboroshi10" /><ref name = "maboroshi120">{{Cite book|和書|author=清水浩史 |title=幻島図鑑 |publisher=[[河出書房新社]] |year=2019 |page=120 |isbn=978-4-309-29035-5 }}</ref>。「幻島図鑑」の著者である[[清水浩史]]によれば、鵜渡根島に人が居住していたという記録としては、[[1933年]](昭和8年)に刊行された『新島大観』の一文のみが確認されているだけである<ref name = "maboroshi120" />。この記録では、鵜渡根島に人が居住したのは[[1893年]](明治26年)から[[1904年]](明治37年)の11年の間に1名が、1年の内、3月から7月の間の期間居住を行っていたとされる<ref name = "maboroshi120" />。清水は、この際の居住者の子孫に取材をしており、その取材では、前述の「新島大観」と異なり、居住した期間は2、3年程度で、2名で居住であっしていたという口伝を聞いている<ref name = "maboroshi122-3">{{Cite book|和書|author=清水浩史 |title=幻島図鑑 |publisher=[[河出書房新社]] |year=2019 |pages=122-3 |isbn=978-4-309-29035-5 }}</ref>。
 
島の近海は好漁場となっている<ref name="taikei1266"/>。本島には磯場が点在し、尾長メジナ、イシダイ、イシガキダイ、モロコ、カンパチ、ヒラマサ、マグロ、カジキ、イサキ、シマアジなどの大型魚が釣れるため、釣り人が渡船を使ってしばしば上陸する。しかしこの周辺の海域は[[時化]]やすく、年に50回くらいしか渡礁できない。[[御蔵島]]から利島に移り住んだ[[ミナミハンドウイルカ]]が当島周辺や[[式根島]]、[[新島]]等にも住み着いている<ref>利島ドルフィンプロジェクト, [http://toshimadolphinproject.web.fc2.com/HermitDolphininJapan.htm 日本の離れイルカ]</ref>。