「社会思想社 (1922年)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (oohara.mt.tama.hosei.ac.jp) (Botによる編集)
 
7行目:
創立当初の社会思想社の同人([[#主要な同人の一覧|後出]])は[[三輪寿壮]]・[[平貞蔵]]・[[蠟山政道]]を始めとして概ね[[新人会|前期新人会]]の[[東京大学|東京帝大]]1920年卒業生を中心とし、新人会内では([[麻生久]]・[[赤松克麿]]ら労働運動に直接関与する「実践派」に対し)「学究派」と呼ばれた人々により構成されていた。彼らは前年[[1921年]]末の新人会改組(会員を東大在学生に限定し卒業生・学外者を分離した)により入会資格を失った卒業生であり、新たな言論活動の場として社会思想社を結成するに至り、同年4月、機関誌として『[[社会思想 (1922年)|社會思想]]』を創刊した。
 
以上のごとく発足当初の社会思想社は新人会OBによるマルクス主義中心の社会科学研究団体で、さらに新たな同人の加入があって左右にわたる多様な思想的傾向を抱えていたが、[[1924年]]4月には第1回総会を開いて社会運動団体への志向を明確に打ち出した。さらに[[1926年]]7月、[[無産政党]]運動の分裂([[労働農民党|労農党]]からの右派脱退と中間派の[[日本労農党|日労党]]結成)という事態を前に、同人の平貞蔵は中間派支持を声明し、ついで社会思想社自体が日労党支持を宣言した。しかし一方で同人の[[細迫兼光]]が左派の労農党書記長に就任するなど、同人は必ずしも政治的に一枚岩ではなかった。
 
[[1928年]]末、[[日本大衆党|日大党]]が結党されると社会思想社は単一無産政党論の立場からこれを歓迎したが、翌[[1929年]]初め内紛により同党は分裂した。社を中間派支持に引っ張っていた三輪寿壮・[[河野密]]・[[細野三千雄]]ら主流派は急速に力を失い、同人内部では左右の思想的相違が露わになった。[[1930年]]1月の『社会思想』終刊後、同人の多くは以前から人的交流のあった[[長谷川如是閑]]・[[大山郁夫]]中心の『我等』に合流し同年5月には『批評』が創刊された。この結果、社会思想社の活動は停滞に向かったが、社自体は、翻訳を担当していた『マルクス・エンゲルス全集』(マル・エン全集)の刊行が続いていたためなおも残存し、[[1932年]]正式に解散した。