「佐竹義宣 (右京大夫)」の版間の差分

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=== 秋田転封後の支配体制確立 ===
義宣は、慶長7年(1602年)9月17日、秋田の[[土崎湊城]]に入城した{{sfn|渡部|1980|p=185}}。義宣は、[[角館城]]、[[横手城]]及び[[大館城]]等を拠点として内政を行い、[[:en:Rokugō rebellion|仙北地方で起こった一揆]]を平定して領内の安定を図った{{sfn|渡部|1980|pp=195-96}}。後に土崎湊城は廃されることとなり、慶長8年(1603年)5月から築城が始まった[[久保田城]]を本城とすることになった。父・義重は横手城を本城にすべきと主張したが、義宣は久保田城を本城にすべきと主張し、そのように決定したのである{{sfn|渡部|1980|pp=202-203}}。
 
また、義宣は家柄や旧例にとらわれず、[[渋江政光]]、[[梅津憲忠]]、[[梅津政景]]及び[[須田盛秀]]といった旧家臣及び[[関東]]・[[陸奥国|奥州]]の旧大名の遺臣達を能力本位で登用し{{sfn|渡部|1980|p=197}}、積極的に開墾を進めて家中の建て直しに尽くした。これにより、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。しかし、浪人あがりで若手の渋江政光を重用することが譜代の老臣の反感を買い、[[家老]]の[[川井忠遠]]らによる義宣、政光の暗殺謀議も起こっている。これは逆に義宣が暗殺を企てた家臣らを粛清して決着した([[川井忠遠|川井事件]]){{sfn|渡部|1980|p=196}}。