「神機隊」の版間の差分

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m 芸藩(広島藩・神機隊)が寡兵で、相馬藩・仙台藩連合の数千人の兵を攻め、つねに単独で敵中に突進している。この芸藩の連戦戦勝の勢いをもって、『官軍強し』という印象を仙台藩に与えた。結果としてわずかな期間で奥羽越列藩同盟の要である仙台藩は敗北し、戊辰戦争の戦局に影響を与えたという趣旨の記述が『戊辰役戦史』に存在せず、不適切であるため当該記述を削除。
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神機隊は、その後も浜街道で同盟軍と戦闘を重ねた。7月28日の手岡原の戦いでは、長州、岩国、鳥取藩兵と共に中央攻撃隊を構成した<ref>大山 (1968: 537)</ref>。本戦闘では、長州、岩国両藩兵が浜街道本道の左右に展開して夜ノ森方面の同盟軍陣地へ射撃しながら前進した。同盟軍は堡塁に籠って頑強に抵抗したが、後続の神機隊も直ちに先頭に参加して攻撃を開始した。この時新政府軍は僅かに広島藩が砲1門を携行していたに過ぎなかったため、放火の火力が不足していた。ここで長州藩兵が戦死2名という損害を出しながらも堡塁に突入し、白兵の末これを占領したため戦況は新政府軍有利に転じ、引き続き追撃して神機隊は長州藩兵などと共に熊ノ町南方の関門を占領した<ref>大山 (1968: 538)</ref>。この日の戦闘では戦闘に立って攻撃前進した長州藩兵が戦死2名、戦傷12名の被害を出したのに対して後発の神機隊は被害を出さなかった<ref>大山 (1968: 538)</ref>。8月1日に新政府軍は、浪江の占領を目的とした作戦行動に移った。この日は前日戦闘しなかった長州藩兵と神機隊が第一線を担当した<ref>大山 (1968: 538)</ref>。神機隊は作戦計画通り、正面から2小隊と砲1門が攻撃したが、同盟軍陣地は堅固で進撃は容易では無かった<ref>大山 (1968: 542)</ref>。一方新政府軍右翼隊を構成していた長州藩兵と[[津]]藩兵は渡河に時間を要しながらも幾世橋の敵陣地に向かって前進し、浪江駅の西方に出て浪江北方西台の相馬藩砲台を背面から急襲した<ref>大山 (1968: 542)</ref>。相馬藩砲兵は不意を食らって四散し、長州藩兵はそのまま背面から浪江に突入した。正面の神機隊と交戦していた相馬藩兵はこの背面攻撃に驚愕して散り散りに敗走した<ref>大山 (1968: 542)</ref>。この日正面から攻撃した神機隊は戦死2名、戦傷13名という損害を出した。戦死者の中には砲隊長[[高間省三]]が含まれている<ref>橋本素助・川合鱗三編「芸藩志」第百二十四巻より</ref>。
 
その後も、相馬、駒ヶ峰の激戦地で、神機隊は常に新政府軍の先鋒になり、進撃した<ref>橋本素助駒ヶ嶺川合鱗三編「芸藩志」第百二十五峠方面で戦闘を繰</ref>。返し、[[仙台]]に入城するときには、まともに歩ける隊兵は80人程度となっていた<ref>『本隊300人の兵卒も、漸次(ぜんじ)、減少して、僅(わず)かに80人を残留するに至れり。ただし、軽傷・加藤種之介(実弟は加藤友三郎内閣総理大臣)のごとき負傷治療して再戦できるものも参入した80人である』(芸藩志より)</ref>。
 
仙台陥落の連鎖で[[会津藩|会津]]も陥落するが、神機隊はこの時点での[[戊辰戦争]]の展開、終結に大きく寄与した<ref name="ex01">『芸藩(広島藩・神機隊)が寡兵で、相馬藩・仙台藩連合の数千人の兵を攻め、つねに単独で敵中に突進している。この芸藩の連戦戦勝の勢いをもって、『官軍強し』という印象を仙台藩に与えた。結果としてわずかな期間で奥羽越列藩同盟の要である仙台藩は敗北し、戊辰戦争の戦局に影響を与えた』
(大山柏著「戊辰役戦史」より)
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== 神機隊の特徴 ==