「高間省三」の版間の差分

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7月28日は進みて[[富岡町|冨岡]]駅に入る。千代岡原の敵兵は丘陵に3カ所の砲台を築いており、激しく弾丸が飛んできた。新政府軍は神機隊が僅かに砲1門を有していたに過ぎなかったため、苦戦したが長州藩兵が損害を出しながらも敵の堡塁に突っ込み、格闘の末これを攻め落としたため形成は新政府軍に有利となり、熊ノ町南方の関門を奪取することに成功した<ref>大山 (1968: 537)</ref>。
 
8月1日、第二次浪江の戦いが雨のなかで始まる。この地を攻め落とされると後がない相馬中村藩と新政府軍双方が死力を尽くした戦いになった<ref>大山 大山「仙兵は第一線を捨て遠く相馬中村付近に後退した。他の友軍もともども後退したらしく、第一線で戦闘するものは僅かに相馬藩だけになった。だが相馬藩にしてみれば自国の領内戦であり、首都相馬中村に次第に切迫されている(熊ノ町から中村まで四十五キロ)。死活の問題である。従って独力必死で防戦するが、勿論裏面では色々と和平工作もあったらしいが、第一線の将士はまだ戦意を捨てていない。」(1968: 539-543)</ref>。
 
前日(7月晦日)、省三は父親に、「皇国の興廃は今日にあり」と手紙をしたためる<ref>手紙は[[広島護国神社]]に奉納されている。</ref>。高間省三はこの第二次浪江の戦いで 正面から顔に銃弾をうけて即死した。遺体は自性院([[双葉町|福島県・双葉町]])に埋葬される。