「文宣帝」の版間の差分

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*555年、猜疑心の強い文宣帝は寵妃の[[薛嬪]]と清河王[[高岳 (北斉)|高岳]]の内通を疑い、高岳を殺害した上、薛嬪の姉を[[鋸引き]]の刑で惨殺した。後に薛嬪をも殺し、その骨で[[琵琶]]を作らせた<ref>『資治通鑑』巻166「帝納倡婦薛氏於後宮~」</ref>。
*558年、文宣帝はたびたび諫言を行ってきた三弟の永安王[[高浚]]と、朝廷への参内命令を拒否して逃げようとした七弟の上党王[[高渙]]を牢に入れ、その後火を付けて処刑した<ref>『北斉書』巻10 列伝第2</ref>。
* 文宣帝は自身が建立した金鳳台に巡行した時、多数の死刑囚を召し出し、葦で編んだ筵を翅代わりとして台の上から身を投げるよう命じ、これを「放生」と称して、死刑囚たちが転落死を遂げる様を見て楽しんだという<ref>隋書 25巻 刑法志「帝嘗幸金鳳臺,受佛戒,多召死囚,編籧篨為翅,命之飛下,謂之放生。墜皆致死,帝視以為歡笑。」</ref>
刑法志「帝嘗幸金鳳臺,受佛戒,多召死囚,編籧篨為翅,命之飛下,謂之放生。墜皆致死,帝視以為歡笑。」</ref>
*僕射の[[崔暹 (北斉)|崔暹]]が卒去した時、その死を大いに悲しんだ。ある時、文宣帝はその未亡人の李氏に対して問うた。
*:「崔暹のことを思い出すか?」