「法政大学大原社会問題研究所」の版間の差分

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[[倉敷紡績]]・[[クラレ|倉敷絹織]]・[[中国電力|中国水力電気]]・[[中国銀行 (日本)|中国合同銀行]]などを立ち上げた実業家の[[大原孫三郎]]が[[1919年]]に[[大阪市]][[南区 (大阪市)|南区]][[下寺町 (大阪市)|下寺町]]の石井記念愛染園に自分の名を冠して設立<ref>『大原社会問題研究所100年史』 21-22頁</ref>。翌年7月に[[天王寺区]][[伶人町]]の新事務所に移転した<ref>『大原社会問題研究所100年史』 34-36頁</ref>。設立当初は社会問題・社会科学と労働科学の2部門を置いていたが、後者は[[大原記念労働科学研究所|倉敷労働科学研究所]]として独立した<ref>『大原社会問題研究所100年史』 37-38頁</ref>。[[1922年]]12月に財団法人化した<ref>『大原社会問題研究所100年史』 47-54頁</ref>。
 
創立に際して[[京都大学|京都帝大]]の[[河田嗣郎]]、[[米田庄太郎]]のほか、[[河上肇]]や[[徳富蘇峰]]らも協力し<ref>法政大学百年史編纂委員会 『法政大学百年史』 法政大学、1980年、757頁</ref>、初代所長には[[国際労働会議代表反対運動|ILO労働代表問題]]で[[東京大学大学院経済学研究科・経済学部|東京帝大]]を辞任した[[高野岩三郎]]を迎えた。[[大内兵衛]]、[[森戸辰男]]、[[櫛田民蔵]]、[[久留間鮫造]]、[[山名義鶴]]などが[[研究員]]や[[嘱託]]となり<ref>『大原孫三郎傳』は研究所の陣容を「東大経済学部の亡命者の植民地」と評している(同書、145頁)。</ref>、[[昭和]]初期の厳しい時代にも[[社会科学]]の研究を続けたが、[[1936年]]に大原孫三郎からの出資を打ち切られたため<ref>[[1928年]]の[[三・一五事件]]で研究所が官憲の捜索を受けたことで大原と研究所との関係が悪化していた(『大原社会問題研究所100年史』 72-74頁)。</ref>、研究所の土地建物と図書を大阪府に20万円で譲渡し<ref>大阪の旧研究所本館は戦災で焼失したが、図書は焼失を免れ、現在は[[大阪府立中央図書館]]に所蔵されている(『大原社会問題研究所100年史』 125頁)。</ref>、翌年[[東京市]][[淀橋区]][[北新宿|柏木]]の[[山内多門]]邸を購入して移転した<ref>『大原社会問題研究所100年史』 109頁</ref><ref>研究所の東京移転について大原孫三郎はのちに「片方の足に靴を履き、一方に下駄を履くのは難しいことだった」と語っている(『大原孫三郎傳』 293頁)。</ref>。
 
その後は組織と人員を縮小し、[[鮎川義介]]の義済会から年3万円の寄付を受けて細々と研究活動を続けたが、[[1945年]]5月25日の空襲で[[土蔵]]一棟を除いて所蔵の図書・資料類を焼失したため<ref>『大原社会問題研究所100年史』 116-119頁</ref>、翌年[[末弘厳太郎]]の斡旋により[[神田駿河台]]の旧[[東亜研究所]]ビルの一室に移転した<ref>『大原社会問題研究所100年史』 120-121頁</ref>。