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「24年組」用語の発生の漫画家側の呼称と同人誌による浸透
成り立ち節:山本順也が見出したなど男性中心主義が目立つので各自が関わった総合的な記述に改め紹介を減量する、語句微修正
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== 概説 ==
1970年代初頭に、新しい感覚を持った女性漫画家たちが次々と現れ、SFやファンタジー的要素や、同性愛の概念を導入したり、画面構成の複雑化を図るなどの技法を用いるなど、当時の少女漫画界の常識を覆していった{{sfn|中川|2013|p=142}}{{sfn|伝説の「24年組」特集}}。彼女らの生年がおよそ昭和24年前後であり、また「大泉サロン」で交流した者も多く、相互に関係が深いことから、「24年組」の名で呼ばれるようになった。24年組の用語は、まず山田ミネコと周囲の漫画家側たちが呼称し始め<ref>[https://twitter.com/yamatomo413/status/738160150763036672 ヤマダトモコ2016年6月2日09:07twitter]2021年9月7日閲覧</ref>、[[迷宮]][[同人誌]]『漫画新批評大系』で、その周囲の関係者に、初期は新しい潮流の少女漫画家一群を特定して、その評論に使用する用語として浸透していった<ref>[https://twitter.com/yamatomo413/status/738160221311238144 ヤマダトモコ2016年6月2日09:08twitter]2021年9月7日閲覧</ref>。この用語の公刊の初出は、初期の少女マンガ家の入門書『鈴木光明の少女まんが入門』(1979年、白泉社)である{{sfn|ヤマダ|2016}}<ref>[[鈴木光明]]『鈴木光明の少女まんが入門』白泉社 1979年、p.417</ref>。また24年組の漫画家はみな、主人公が少年である作品を手がけている。当初は読者が少女なのに少年が主人公などとはあり得ないと編集部からの反発もあったという。しかし実際には少女読者の人気を獲得していくこととなった{{sfn|伝説の「24年組」特集}}。
 
さらには、竹宮惠子、萩尾望都は1970年代後半に、山田ミネコは1980年代に少年誌にも連載を行なった{{efn|例として萩尾望都『[[百億の昼と千億の夜]]』(原作:[[光瀬龍]])『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])[[1977年]]~[[1978年]]、竹宮恵子『[[地球へ…]]』『[[マンガ少年]]』([[朝日ソノラマ]])[[1977年]]~[[1980年]] 、山田ミネコ『[[最終戦争シリーズ]]』『[[リュウ (雑誌)|リュウ ]]』([[徳間書店]])[[1981年]]~[[1987年]]などがある。}}。その活動がとくに注目されていた時期は1970年代中頃から1980年代前半である。
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== 成り立ち ==
竹宮惠子と萩尾望都が共同生活を送り、24年組が誕生するきっかけとなった場所が[[大泉サロン]]である。この二人を中心に大泉サロンに集まった漫画家・アシスタントを中心に新たな漫画の波が起きた。これが24年組である。そして竹宮と萩尾の出発に貢献し、新たな少女漫画の誕生に大きな役割を果たしたのが、編集者の[[山本順也]]である。2004年に山本は、[[文化庁メディア芸術祭]]功労賞を受賞し、[[里中満智子]]は講評で、「山本氏がいなければ日本の少女漫画の発展は10年は遅れたと思う」と、進展を進めたと大きく評価されている。
竹宮惠子と萩尾望都を見出し、世に送り出した人物は編集者の[[山本順也]]であり、竹宮と萩尾が中心となって共同生活を送り、24年組が誕生するきっかけとなった場所が[[大泉サロン]]である。
 
[[1962年]]の『少女サンデー』休刊以来、[[小学館]]は[[講談社]]の『[[なかよし]]』や[[集英社]]の『[[りぼん]]』・『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』等大きく後れを取っていた。そこで新雑誌創刊の責任者が、挽回策なった山本は[[1968年]]、『[[小学館の学年別学習雑誌|小学一年生]]』等の[[学年誌]]に掲載されいた少女向けの漫画を集めて、月刊誌『[[少女コミック]]』を創刊した。同誌は[[1970年]]に週刊化されたが、当時は多くの漫画家が出版社と専属契約をしており、副編集長の山本は作家の確保に苦労していた。
 
そのころ竹宮は[[手塚治虫]]より『[[COM (雑誌)|COM]]』に作品を投稿していた竹宮縁で[[手塚治虫]]に、山本を紹介される。当時の竹宮は親の意向により郷里の[[徳島大学]]に通い、[[学生運動]]に参加してから、今後の模索のため1年間執筆を断っている時期もあった{{Sfn|竹宮|2020|loc=第8回}}。山本はそんな竹宮を、山本は徳島まで訪ねて行き、「新しいことを始めたい」と説得した{{Sfn|竹宮|2016}}。竹宮は一度上京して東京行きを決心した。臨時アシスタントをしてもらい意気投合した萩尾望都が、『[[なかよし]]』で子供向けの少女漫画の枠には入らず原稿の不採用が立て続いていた。それで、5、6作のボツ原稿を竹宮惠子に送り、竹宮が山本のもとへ持ち込んだ。山本は萩尾の漫画にも新しい衝撃を感じた。萩尾が新人で他社と専属契約を結んでいなかったこともありいので『少女コミック』で自由に描かせけるようになった{{sfn|文藝別冊|2010|pp=22-25|loc=「萩尾望都2万字ロングインタビュー 私のマンガ人生」}}。その後、萩尾の友人の[[増山法恵]]の導きで[[練馬区]]のアパートで共同生活を始める{{Sfn|竹宮|2020|loc=第11回}}。そこに増山がサロン化を計画して漫画家を志す同年代の女性たちが集い、漫画について語り合ったり互いに[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]したりする場となった<ref>[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_02-2b.asp 電子まんがナビゲーター 第2回 竹宮惠子編 その2]「「大泉サロン」の時代の巻」(2)</ref>。これが「[[大泉サロン]]」である{{efn|24年組全員が大泉サロンに関わっていたわけではない。}}。
 
それから、年代の大島弓子も執筆陣に加えたわり、24年組として影響を大きくする
 
萩尾や竹宮、大島など(詳しくは[[24年組#メンバー|メンバーの項]]参照)同年代の少女漫画家の自由な作風は、小中学生のみならず高校生や大学生、男性にまで受け入れられ、文芸評論家も高く評価した。