「毛利氏」の版間の差分

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=== 江戸時代 ===
[[画像:Mouri_Takachika.jpg|thumb|200px|right|[[毛利敬親]] ([[1867年]])]]
[[江戸時代]]、毛利氏は幕府に対して、新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。
 
また、萩に新たな居城を造るとともに、領内の再検地に着手し始めた。そして、慶長18年([[1613年]])に幕閣と協議したうえで36万9千石に高直しを行ない、この石高が長州藩の表高(支藩分与の際も変わらず)として公認された。
 
この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は[[寛永]]2年([[1625年]])には65万8千石、[[貞享]]4年([[1687年]])には81万8千石余であった。[[宝暦]]13年([[1763年]])には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には、実高は100万石を超えていたと考えられている。
 
江戸時代中期には、[[毛利重就]]が藩主になると、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行われた。[[文政]]12年([[1829年]])には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行っている
 
天保8年([[1836年]])、後に「そうせい侯」と呼ばれた[[毛利敬親]](慶親)が主に就くと、[[村田清風]]を登用した[[天保の改革]]を行われた。改革では、相次ぐ外国船の来航や[[清|中国]]での[[アヘン戦争]]などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。
 
毛利氏は幕末の雄藩となり、幕府から[[長州征討]]などによって圧迫を受けた。だが、[[吉田松陰]]や[[高杉晋作]]、[[木戸孝允|桂小五郎]]らの人材を輩出し、[[明治維新]]を成就させた。