「航空主兵論」の版間の差分

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航空主兵論はなかなか認められず、太平洋戦争の1941年12月[[真珠湾攻撃]]に続く航空成果は航空の評価を上げたが、1942年3月1日大西中将が「もう航空主兵だろう」と説いても、[[連合艦隊]]参謀長[[宇垣纏]]中将は「大洋上の艦隊戦闘を考えると海軍大勢はまだ戦艦が主兵」と答えた。1942年春、[[軍令部]]部員[[佐薙毅]]も「[[航空母艦|空母]]の必要は上司も認めるも軍令部二課長[[田口太郎]]の戦艦価値失い航空主兵は飛躍しすぎ」と記録している。当時軍令部第一部長だった[[福留繁]]中将も戦後の回想で空母が活躍もまだ主兵は依然戦艦だと思っていたと語っている。
 
1942年4月末、戦訓研究会で山本五十六は「長期持久的守勢を取ることは、連合艦隊司令長官としてできぬ。海軍は必ず一方に攻勢をとり、敵に手痛い打撃を与える要あり。敵の軍備力は我の5~105 - 10倍なり。これに対し次々に叩いてゆかなければ、いかにして長期戦ができようか。常に敵の手痛いところに向かって、猛烈な攻勢を加えねばならぬ。しからざれば不敗の態勢など保つことはできぬ。これに対してわが海軍軍備は一段の工夫を要す。従来のゆき方とは全然異ならなければならぬ。軍備を重点主義によって整備し、これだけは敗けぬ備えをなす要あり。わが海軍航空威力が敵を圧倒することが絶対必要なり」と主張した<ref>戦史叢書43ミッドウェー海戦87-88頁、戦史叢書95海軍航空概史268-269頁</ref>。
 
1942年4月28-29日大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀[[源田実]]中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「[[始皇帝|秦の始皇帝]]は[[阿房宮]]を造り、日本海軍は[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた。<ref>淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁</ref>第二艦隊砲術参謀[[藤田正路]]は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した<ref>戦史叢書95海軍航空概史268頁</ref>。
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== 海外 ==
アメリカ陸軍の[[ウィリアム・ミッチェル]]は空軍独立論者であり、戦艦無用論の提唱者であった。1921年7月13日~21 - 21日、ミッチェルによって陸海軍協同で戦艦に対する大規模な爆撃実験を行なわれた。陸軍航空隊のマーチン爆撃機(MB-2)で大西洋岸に浮かべた実験艦に対艦爆撃を行い、ドイツの戦艦オストフリースランドを2000ポンド(900キロ)爆弾で撃沈した。実験では他に旧式戦艦ニュージャージー、軽巡洋艦フランクフルトなどを撃沈させている。ミッチェルはその後、アメリカ空軍の設立を各方面に説いてまわったが容れられず、ついには軍首脳の不興を買って左遷されたが、戦艦無用論をしつこく宣伝して自説を曲げることはなかった<ref>山本親雄『大本営海軍部』朝日ソノラマ52-53頁、兵頭二十八『パールハーバーの真実』PHP文庫</ref>。
 
== 脚注 ==