「赤羽末吉」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
29行目:
『かさじぞう』の制作前後に、松居に第二作の希望を問われ「蒙古ものがかきたい」と答える{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=384-389}}。1961年6月、松居から[[大塚勇三]]の『スーホの白い馬』を、『こどものとも』の穴埋め原稿として依頼され、10月刊行の『こどものとも』67号に掲載された{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=384-389}}。1か月での作画の上、色刷りが末吉の意と異なっていたため個人的には満足できない仕上がりだったが{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=384-389}}、再版希望が版元に寄せられたこともあり、横型の大判絵本(末吉の提案による)に描き直されて1967年に再版された{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=389-396}}{{Efn|1964年に松居からは「表紙の描き足し」での再版提案があり、それを描いたものの、最終的には全面改稿の新版となった{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=384-389}}。その経緯を末吉自身は、当初の原画が印刷所の火災で焼失したからだと述べていたが、実際に焼けたのは『かさじぞう』で、松居は当初の原画が残っているのを知りながら描き直しに応じたことになる{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=389-396}}。}}。
 
この間、1965年に最初の[[産経児童出版文化賞|サンケイ児童出版文化賞]](『ももたろう』『白いりゅう黒いりゅう』)を受賞、さらに『スーホの白い馬』で1968年に再度受賞し、絵本作家としての評価を確立し、1969年にアメリカ大使館を退職して専業の絵本画家となった{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=418-419}}。退職後、[[神奈川県]][[鎌倉市]]に自宅兼アトリエを新築して1970年に転居する{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=420-421}}。これに先立ち、1965年には[[長野県]][[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]]の[[黒姫山]]麓に別荘を建て、町の意向に協力する形で周辺を「黒姫山荘」という別荘地にする活動も手がけた{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=369-374}}。この別荘地には[[いわさきちひろ]]や[[いぬいとみこ]]らも別荘を構え、彼らを含めた住人と交流した{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=369-374}}。専業作家となってからも精力的に作品を世に送る一方で、1974年からセミナー「絵本の学校」(黒姫など数カ所で開催)の校長兼講師を務めるなど、後身の育成にも取り組んだ{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=422-424}}。
 
一方、絵本を読んだ[[木下順二]]の依頼で、1962年に木下が脚本を担当した[[西川流]]の舞踊劇『花若』の舞台美術(衣装を含む)を手がける{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=442-446}}{{Sfn|赤羽茂乃|2020|p=575}}{{Efn|木下が見た絵本については、木下は『かさじぞう』、末吉は『だいくとおにろく』だったと記している{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=442-446}}。}}。これを契機に、主に西川流の舞踊劇(脚本は木下のほか、[[松山善三]]、[[北条秀司|北條秀司]]ら)10作で舞台美術を担当した{{Sfn|赤羽茂乃|2020|pp=450-455}}。