「日本の新聞」の版間の差分

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[[1862年]][[1月1日]](文久元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]])には初の日本語の新聞として『[[官板バタビヤ新聞]]』が刊行される。これはジャワで発行されていたオランダ語の新聞『ヤヴァッシェ・クーラント Javasche Courant』を、幕府の[[蕃書調所]]が和訳したものである。3月には『官板海外新聞』と改名するが、一般には「バタビヤ新聞」として知られていた。また、播州の水夫であったジョセフ・ヒコ([[浜田彦蔵]])が、[[1864年]]に出した『新聞誌』(翌年『海外新聞』に改名<ref>{{kotobank|海外新聞}}</ref>)が、日本での新聞第2号とされている。
 
[[明治]]時代に入ると、[[文明開化]]の流れに乗って新聞が多数創刊された。[[1868年]]に小冊子形態の新聞が刊行され、佐幕色の『[[中外新聞]]』、『[[江湖新聞]]』(1868年創刊)が、[[18701871年]]には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊される。[[1872年]]には『[[東京日日新聞]]』(現在の[[毎日新聞]])、『[[報知新聞|郵便報知新聞]]』などがそれぞれ創刊された。明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取った。当時の明治政府は日本各地に無料の[[新聞縦覧所]]や新聞を人々に読み聞かせる[[新聞解話会]]を設置したほか、新聞を公費で買い上げたり[[郵便]]で優遇したりして各新聞社を支援していた。
 
[[1874年]]に民選議院設立建白書の提出などを契機として[[自由民権運動]]が盛んになると、それまでの[[御用新聞]]より民権派の勢力が強くなり、政府に批判的な論調が目立つようになった。こうしたことから明治政府は[[1875年]]に[[新聞紙条例]]、[[讒謗律]]を制定して新聞の言論弾圧に乗り出した。この頃の新聞は、政論中心で知識人を対象とした「'''[[大新聞]]'''」と娯楽中心で一般大衆を対象とした「'''[[小新聞]]'''」に分かれていた。