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[[File:Yao Guang Xiao.jpg|thumb|right|200px|姚広孝]]
'''姚 広孝'''(よう こうこう、[[元統 (元)|元統]]3年([[1335年]]) - [[永楽 (明)|永楽]]16年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]([[1418年]]
== 人物 ==
[[蘇州 (古代)|蘇州]][[相城区|長洲県]]の出身。[[医者]]の家柄であったが、14歳
燕王からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、[[建文帝]]が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また燕王自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、燕王を永楽帝として即位させた([[靖難の変]])。
即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時期には「太祖実録」・「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。
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