「姚広孝」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク |
編集の要約なし |
||
3行目:
== 人物 ==
[[蘇州 (古代)|蘇州]][[相城区|長洲県]]の出身。[[医者]]の家柄であったが、14歳に出家して[[密教]]を伝授された後、[[臨済宗]]に帰依し法名を道衍、号を独庵とし「独庵道衍禅師」と呼ばれた。また[[道士]]の[[石応真]]から[[陰陽術]]と[[占術]]を学んだ。[[洪武]]中期、朝廷では[[儒教]]の[[経典]]に精通した僧侶を呼んで[[礼部]]で試験を行わせた。このとき陶淵は官職を受けず、[[朱元璋|洪武帝]]は僧侶の[[袈裟]]を下賜し
燕王からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、[[建文帝]]が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また燕王自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、燕王を永楽帝として即位させた([[靖難の変]])。
|