「前田利家」の版間の差分

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| 戒名 = 高徳院殿桃雲浄見大居士
| 墓所 = [[野田山#前田家墓所|野田山墓地]]、[[宝円寺]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]]・[[近衛府|左近衛権少将]]兼[[筑前国|筑前守]]、右近衛権中将、[[正四位|正四位下]]・[[参議]]、[[従三位]]・[[中納言|権中納言]]、[[従二位]]・[[大納言|権大納言]]<br>贈[[従一位]]
| 主君 = [[林秀貞]] → [[織田信長]] → [[織田秀信|秀信]] → [[豊臣秀吉]] → [[豊臣秀頼|秀頼]]
| 氏族 = [[前田氏#加賀前田家|前田氏]](称[[菅原氏|菅原姓]])
| 子 = '''[[前田利長|利長]]'''、[[前田利政|利政]]、[[前田知好|知好]]、[[前田利常|利常]]、[[前田利孝|利孝]]、[[前田利貞|利貞]]、[[春桂院|幸]]([[前田長種]]室)、[[蕭姫|蕭]] ([[中川光重]]室)、[[摩阿姫|摩阿]]([[豊臣秀吉]]側室 → [[万里小路充房]]側室)、[[豪姫|豪]]([[宇喜多秀家]]室)、[[与免]]([[浅野幸長]]と婚約)、[[春香院|千世]]([[細川忠隆]]正室 → [[村井長次]]室)、[[前田菊姫|菊]]、[[保智姫|保智]]([[武田信吉]]と婚約)、[[福姫|福]]、[[#一族縁者|他]]<br/>養子:[[福寿院]]([[水野忠清]]正室)
}}
'''前田 利家'''(まえだ としいえ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]][[戦国大名|大名]]。[[加賀藩]]主[[前田氏#加賀前田家|前田氏]]の祖。[[豊臣政権]]の[[五大老]]の一人。俗に「加賀百万石の祖」とも称されるが、実際に前田家が百万石を超えるのは[[前田利長|利長]]・[[前田利常|利常]]ら利家の息子たちの世代からである。
 
== 略歴 ==
 
=== 北陸道の惣職 ===
天正12年(1584年)8月、利家が先導役を果たし秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと佐々成政は降伏した([[富山の役]])した。利家の嫡子・[[前田利長]]が越中国の4郡のうち[[砺波郡|砺波]]・[[射水郡|射水]]・[[婦負郡|婦負]]の3郡を加増され、前田一族で76万5千石に達す<ref>国書刊行会『史籍雑纂. 第二』「当代記」</ref>。同年4月に、越前国の国主である丹羽長秀が没したのち、[[丹羽氏|丹羽家]]は国替えとなり、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上った。秀吉から諸大名の窓口としての機能を求められたのである{{Sfn|花ヶ前|2001|p=43|loc=宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」}}、とりわけ[[蒲生騒動]]の件では徳川家康に代わって奔走し、秀吉から処分の取り消しを引き出した<ref>{{Cite journal |和書 |author = 宮本義己 |title = 豊臣政権下における家康の危機 |year = 1996 |journal = 大日光 |issue = 67号}}</ref>。
 
天正13年([[九州征伐1585年]]では8,000の兵で[[畿内]]を守備(息子の利長が九州まで従軍)。同年7)7秀吉は[[関白]]に任官し、9月に秀吉が[[豊臣氏|豊臣姓]]を賜ると、天正14年(1586年)に利家に[[羽柴氏]](名字)を名乗らせ[[筑前国|筑前守]]・[[近衛府|左近衛権少将]]に任官させている(前田家譜)。天正16年(1588年)には秀吉から豊臣姓(本姓)をも下賜された<ref>{{Cite journal |和書 |author = 村川浩平 |title = 羽柴氏下賜と豊臣姓下賜 |year = 1996 |journal = 駒沢史学 |issue = 49号}}</ref>。
 
天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて、利家は秀吉の[[九州征伐]]において、8,000の兵で[[畿内]]を守備した。息子の利長が九州まで従軍している。
 
天正18年([[1590年]])1月21日、[[参議]]に任じられる(前田家譜)。また、秀吉が主催した[[北野大茶湯]]や[[後陽成天皇]]の[[聚楽第]][[行幸]]にも陪席する。その後は[[陸奥国|奥州]]の[[伊達政宗]]などに対して上洛を求める交渉役{{Sfn|岩澤|1988|p=184}}となる。
天正19年([[1591年]])8月、秀吉より出兵の命が出され、[[名護屋城]]の築城が始められた。
 
[[文禄]]元年([[1592年]])3月16日利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かった(言経卿記)。従う兵は8,000というが、嫡子の利長は京に停められている。初め秀吉は自ら渡海する意思を持っていたが、利家は徳川家康と共にその非なるを説き、思い止まらせた。7月22日、秀吉は母・[[大政所]]危篤の報を得て、急ぎ帰京する。葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂を発ったのが10月1日(多聞院日記)。約3ヶ月間名護屋を留守にしていたが、その問、秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行っていたのは、家康と利家であり、のちの[[五大老]]の原型がみてとれる。
 
文禄2年(1593年)1月、渡海の命を受けて準備し、陣立てまで定まったが、間もなく[[明]]との講和の動きが進み、結局は渡海に及ばなかった。5月15日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされた。8月、[[豊臣秀頼]]誕生の報に、秀吉は大坂に戻る。利家も続いて東上し、11月に金沢に帰城した。このときにまつの侍女である[[寿福院|千代の方]]との間に生まれた子供が猿千代、のちの第三代加賀藩主・[[前田利常]]である。